女子の理系選択に関する調査研究

山形大学教授の河野銀子さんより、報告書刊行のお知らせがあったので、掲載する。

内閣府委託調査「女子生徒等の理工系分野への進路選択における地域性についての調査研究」の報告書が、本日公開されました。人口規模に着目して分析し、小規模自治体の子どもたちが「置き去り」にならないよう政策介入すべきと結論しています。アンケートのデータは寄託後に公表されます。

掲載サイト:内閣府「リコチャレ」関連調査研究 https://www.gender.go.jp/c-challenge/materials/index.html

報告書:ttps://www.gender.go.jp/research/kenkyu/pdf/riko_sentaku_research_r03.pdf

DXについて

英語の単語の略で何かを語られる時、その意味が何かを理解するまでに時間がかかることがある。ましてやその略号が、英語の何の略なのかわからないと、余計に混乱する。最近(学校)教育DXという言葉がよく使われるが、そのDXとは何のことなのか、何の略なのかがわからず、戸惑うことが続いた。皆理解しているようなので、今更聞くのも恥ずかしく、ネットで調べて、やっと了解した。 以下、その転載。

DXは、デジタルトランスフォーメーション(Digital Transformation)の略です。「DT」ではなく「DX」と表記されるのは、英語圏では交差するという意味を持つ「trans」を「X」と略すことがあるためといわれています。DXという言葉を最初に用いたのは、スウェーデンのウメオ大学のエリック・ストルターマン教授です。2004年に発表した論文の中で同氏は、DXについて「ITの浸透が、人々の生活をあらゆる面でより良い方向に変化させる」と記述しています。また、経済産業省は、2018年12月に発表した「デジタルトランスフォーメーションを推進するためのガイドライン(DX推進ガイドライン)Ver. 1.0」において、DXを下記のように定義しています。「企業がビジネス環境の激しい変化に対応し、データとデジタル技術を活用して、顧客や社会のニーズを基に、製品やサービス、ビジネスモデルを変革するとともに、業務そのものや、組織、プロセス、企業文化・風土を変革し、競争上の優位性を確立すること」https://www.smbc.co.jp/hojin/magazine/planning/about-dx.html

DXとは、データとデジタル技術によって商品やビジネス、業務、企業文化等の変革を成し遂げるものであり、その目的は競争力の維持・獲得・強化を果たすことにあります。/デジタイゼーションとの違い-これまで、アナログで行ってきたビジネスプロセスのデジタル化を意味する「デジタイゼーション」は、DXそのものを指すものではなく、あくまでDXを実現するためのステップのひとつです。これまで紙を用いて作成していた書類をデジタル化して共有するようにしたり、連絡手段としてメールやチャットツールを使用したりすることもデジタイゼーションの一種です。デジタル技術を活用して業務効率化やコスト削減を実現することが目的となります。(https://www.smbc.co.jp/hojin/magazine/planning/about-dx.html)

したがって、学校教育DXに関する理解は、下記のようになるであろう。
PCの端末、タブレットが子ども一人に配布されたということは、それはあくまで文房 具の1つで教育の方法が少し変わるだけなのか、それとも学校教育の仕組みそのものが 大きく変わるDX(Digital Transformation)なのか、この議論が必要である。

春のチューリップ

桜の季節が終わると、次はサツキやバラそして紫陽花の季節になる。その間に、菜の花、パンジー、ポピー、チューリップなど小さめの草花が綺麗で、楽しませてくれる。

昨日(9日)は、「佐倉ふるさと広場」(https://www.city.sakura.lg.jp/sakura/tulip/)にチューリップを見に行った(車で30分)。広い畑に多くの種類のチューリップが咲いていた。その種類は80種にもなり、周囲には桜や菜の花も咲いていて、風車もあり、春を楽しんだ。

500円で畑から好きなチューウリップを10本(JAFの会員は15本)自分で選んで球根から掘り持ち帰ることができる。30本のいろいろな種類のチューリップを持ち帰り、庭に植え、近所にも配り、春の訪れを楽しんだ。

第1印象や先入観の固定化について

第1印象や先入観は固定化する傾向があると思う。その後の事柄の解釈は、第1印象や先入観を補強するような形で働くのではないか。昔アメリカ人のベトナム戦争への見方は、ベトナム戦争の進行と共に、推進派はますます推進の意見に、反戦派はますます反戦の意見になっていったという。同じ戦争の進行の事実を見ても、最初の見方によって180度違ってしまう(ロシヤのウクライナへの侵攻に関しての見方に関しても同様であろう)。さらに定着した制度に関しては、その反対の制度に理解を示すのはなかなか難しい。

 日本の学校では、教室で一人の教師が多くの児童生徒を一斉に教える一斉指導が、明治以来制度と定着している。したがって、そうでない「個に応じた指導」やオープンスクールを,1971 年にアメリカの学校で視察した日本の教師は、その教育方法が全く理解できなかったという(加藤幸次『個別最適な学び・協働的な学びの考え方・進め方』(黎明書房、2022.3,pp22-23)。一斉指導が慣習化した日本の教師にとって、児童・生徒が個別に学ぶという発想は皆無に等しい。

村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』(文藝春秋2014年)を原作とした映画がつくられ、アカデミー賞(国際長編映画賞)を受賞し話題になっている。(https://dmc.bitters.co.jp/?msclkid=cdb72c3cb54111ecb5b4eede9e4e2a98)ただ、映画は原作とはかなり違っているという。それだと、原作を読むのが先か、映画を見るのが先かがなり悩ましいところである。きっと、先に見た方が先入観として残り、その観点から残りの方を見る(or読む)と思う。私の場合は、既に小説は読んでいるので、映画は見るべきかどうかは迷う。

私の小説への感想は、あまりいいものでなかった。車を運転する女性に関する描写や、役者(俳優)の心理に関しては興味深い指摘がたくさんあったが、この小説のメインテーマである亡くなった妻(女優)が、生前つまらない男に惹かれたのは何故だろと悩む主人公の心理はあまり理解できなかった。

この映画は、原作の小説「ドライブ・マイ・カー」だけでなく、村上春樹の他の作品も取り入れ、春樹ワールドを描いているのという解釈もあり、映画が原作を逸脱して優れたものになっているのであれば見たいと思った。

村上春樹がこの本(『女のいない男たち』)のまえがきに書いていることであるが、氏は出版社から依頼されて原稿を書くことはしない。自分のペースで小説を書き、書きあがったら出版社を探すと述べている。多くの作家は依頼されて小説を書くのであろう。

大学の研究者も、原稿を依頼されて書くことが多いのではないか。それで、大学を退職して原稿の依頼が来なくなると執筆も研究も辞めることになる。内田樹の言うように、社会から何の期待もないランティエ(年金生活者)や高等遊民には、知的ムーブメントを牽引する力がある(あった)とすると、研究者が依頼されて原稿を書く(研究をする)という慣習は、村上春樹を見習い、少し考え直した方がいいかもしれないと思った。