第1印象や先入観の固定化について

第1印象や先入観は固定化する傾向があると思う。その後の事柄の解釈は、第1印象や先入観を補強するような形で働くのではないか。昔アメリカ人のベトナム戦争への見方は、ベトナム戦争の進行と共に、推進派はますます推進の意見に、反戦派はますます反戦の意見になっていったという。同じ戦争の進行の事実を見ても、最初の見方によって180度違ってしまう(ロシヤのウクライナへの侵攻に関しての見方に関しても同様であろう)。さらに定着した制度に関しては、その反対の制度に理解を示すのはなかなか難しい。

 日本の学校では、教室で一人の教師が多くの児童生徒を一斉に教える一斉指導が、明治以来制度と定着している。したがって、そうでない「個に応じた指導」やオープンスクールを,1971 年にアメリカの学校で視察した日本の教師は、その教育方法が全く理解できなかったという(加藤幸次『個別最適な学び・協働的な学びの考え方・進め方』(黎明書房、2022.3,pp22-23)。一斉指導が慣習化した日本の教師にとって、児童・生徒が個別に学ぶという発想は皆無に等しい。

村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」『女のいない男たち』(文藝春秋2014年)を原作とした映画がつくられ、アカデミー賞(国際長編映画賞)を受賞し話題になっている。(https://dmc.bitters.co.jp/?msclkid=cdb72c3cb54111ecb5b4eede9e4e2a98)ただ、映画は原作とはかなり違っているという。それだと、原作を読むのが先か、映画を見るのが先かがなり悩ましいところである。きっと、先に見た方が先入観として残り、その観点から残りの方を見る(or読む)と思う。私の場合は、既に小説は読んでいるので、映画は見るべきかどうかは迷う。

私の小説への感想は、あまりいいものでなかった。車を運転する女性に関する描写や、役者(俳優)の心理に関しては興味深い指摘がたくさんあったが、この小説のメインテーマである亡くなった妻(女優)が、生前つまらない男に惹かれたのは何故だろと悩む主人公の心理はあまり理解できなかった。

この映画は、原作の小説「ドライブ・マイ・カー」だけでなく、村上春樹の他の作品も取り入れ、春樹ワールドを描いているのという解釈もあり、映画が原作を逸脱して優れたものになっているのであれば見たいと思った。

村上春樹がこの本(『女のいない男たち』)のまえがきに書いていることであるが、氏は出版社から依頼されて原稿を書くことはしない。自分のペースで小説を書き、書きあがったら出版社を探すと述べている。多くの作家は依頼されて小説を書くのであろう。

大学の研究者も、原稿を依頼されて書くことが多いのではないか。それで、大学を退職して原稿の依頼が来なくなると執筆も研究も辞めることになる。内田樹の言うように、社会から何の期待もないランティエ(年金生活者)や高等遊民には、知的ムーブメントを牽引する力がある(あった)とすると、研究者が依頼されて原稿を書く(研究をする)という慣習は、村上春樹を見習い、少し考え直した方がいいかもしれないと思った。