つつましやかな満足

経済不況の折、一家の主婦は、新聞の折り込みチラシを見て、1円でも安い品物を求めて店を回っているという新聞記事を目にすることがある。そのように節約した金額が、「チリが積もれば山となる」で、1年間で大きな金額(節約)になるという。これを、幸福度や満足度からみてみたらどうだろう。

私の身近な例でいえば、近くの大きなスーパーで400円のお弁当がそれなりにおいしく量もあり昼食として満足できる。ただ、近くの小さな店のお弁当は500円と少し高いが、注文してから作ってくれておかずの種類も多く温かいお弁当でとてもおいしい。お昼に家にいて、このどちらかのお弁当にしようという時、迷うことになる。

たかだか100円の違いだが、家族の4人分を買うと400円の差がある。これを1か月にすると1万2千円の差となる。毎日お弁当を買うわけではないので、月の半分とすると6千円の差である。1か月に6千円余分に使えば、1か月おいしいお弁当が食べられる。1か月6千円節約すると、毎日のお弁当があまり美味しくない。

1か月6千円といっても少ない額ではなく、半年で3万6千円。1年で7万2千円となる。このお金で、半年に1度あるいは2度、家族で旅行にいくことができる。毎日の満足度を小さくしても、1年に1~2度、家族で旅行し、ドーンと楽しんだ方がいいと考える家族もいることであろう。

上の例は、あまりにつつましく、笑ってしまう人も多いかもしれないが、このようなことで悩んでいるのが、庶民の現実ではないかと、私は思う。(ただ、働き手の父親が、飲み代を、月に1~2回節約すれば、6千円はすぐ捻出でき、家族はおいしい昼食を毎日、食べられるともいえる)

私自身は、年に1~2度の贅沢な旅行に行かなくても、日々の小さな満足(400円のお弁当ではなく500円のお弁当)の方を選びたいと思う。(なんと、つつましやかな満足であろうか。普通サラリーマンの昼食の平均は1,000円くらいではないかと思うので。)

(でも昨日テレビで、インドネシヤの10歳前後の子どもが、タバコの葉を束にする仕事に1日4〜5時間従事し、素手でタバコの葉に触るので、ニコチンが体内に入り、病気になっている様子を放映していた。それは貧しさ故のことで、1日そのように働いても100円もならないという。それを考えると、100円でも馬鹿にできないし、この子らの犠牲の上に、日本や欧米諸国の人々のタバコの趣向が成り立っているかと思うと、やるせない気持ちになる。)

教育社会学への理解

「学会の集まりは新興宗教の信者の集まりのようなもの」と教育社会学者の竹内洋氏が、ある雑誌に書かれていて、なるほどと感心したことがある。
私達大学教員は、自分の専門のことで一番大切に思っていることが、学生はおろか、同じ学科の教員にも理解されず悔しい思いをすることが多い。しかし、大学は違っても同じ学会(学問分野)のメンバー同士は、学問の共通土台があり、世代、性別、大学、地位が違っても、話が通じると感じることができる。年1回の学会の大会で、同じ学会メンバーと交流することで、日頃の周囲の無理解のうっぷんを晴らすことができる。
教育社会学の特質として、自己の方法論や立ち位置を問題にするという自己言及的な謙虚なところがあり、それは新興宗教とは違うところだと思う。
日本では、戦後学会も出来、いくつかの大学で講座や科目のもうけられている教育社会学であるが、その地位は安定していない。
優れた多くの教育社会学の論文や著作が発刊され、多くの教育社会学の研究者が、学会(*)、マスコミ、政府の審議会で活躍しているが、大学で教職科目に教育社会学は入っていないし、教育社会学という科目が開設されて大学もそれほど多くない。
これは嘆くより、研究者が、それぞれの立場で地道に努力し、教育社会学的な見方の有効性を訴えていくしかないだろう。
これは、新興宗教的な見方と思われるかもしれないが、今の全国の大学で、教育関係の学部や学科は、教育社会学への理解があるかどうかで、その大学の教育学研究の水準は左右される(これはデータでも示せる)、それだけの成果を教育社会学は成果をあげていると、私は思う。

* 日本教育学会の会長は広田氏(日本大学)、日本高等教育学会の会長は金子氏₍筑波大学)、日本子ども社会学会の会長は永井氏(東京成徳大学)と、日本の主要な教育やこども関係の学会の会長は教育社会学が専門の研究者である。

親友の訃報

中学校時代に仲のよかった友人(その時代の唯一の親友といってもよい)の息子さんから電話があり、「一昨日父が亡くなりました」と告げられた。驚き、悲しみ、「葬儀に出席したい」と告げながら、彼とのこれまでの交友をいろいろ思い出した。

二人とも千代田区の同じ公立中学(一ツ橋中学校)に千葉県から通っていたので(彼は船橋から、私は市川から)帰りに一緒に帰り、お互いに家にも遊びに行った。彼の家は、船橋の大きな海苔の卸問屋だった。彼は、大学卒業後、千葉の銀行に就職し、同期入社の年下の可愛い女性と付き合っていて紹介されたことがある。その女性と間もなく結婚し、その結婚式にも呼んでもらった。その後は歩む道も違い、年賀状だけのやり取りで、30年以上会うこともなかった。 そして彼が銀行を退職し、第2の職場に移ったとき、2度ほど会った。その時感じたのは、「30年の月日は長いな」ということである。実業界で過ごした彼と大学で過ごした私では経験が大きく違い、話がなかなか噛み合わない。彼もそれを感じたと思う。 ちょうど、夏目漱石の「それから」の平岡と代助のような感じである。

<代助は同時にこう考えた。自分が三四年の間に、これまで変化したんだから、同じ三四年の間に、平岡も、かれ自身の経験の範囲内で大分変化しているだろう>(それから)

「それから」の場合は3〜4年だが、私達の場合は、30年の空白がある。 彼が私の連絡先を息子に残していたということは、中学時代の交友を大事に思ってくれたせいであろう。彼の霊前に参り、冥福を祈ってこようと思う。

震災被災地の今

水沼文平さんより、津波が襲った仙台市若林区荒浜地区の現在の写真を送っていただいた。掲載させていただく。
東北の地震・津波のことを忘れず、日々生活を送りたいと思う。最近は、茨城と千葉北部の地震が小さいながら続いて起こっている。

<写真は仙台市若林区荒浜の風景です。
写真一枚目、密集していた漁師の集落跡です。松林の向うは子どもの頃遊んだ深沼海水浴場です。
二枚目、新しく作った防潮堤が果てしなく続いています。
三枚目、小さく見える白い建物がかつての荒浜小学校です。
この荒浜地区の人口は約2500名、津波で命を失った人は180名でほとんどが高齢者です。
幸い荒浜小学校の児童は屋上に避難、死亡者は出なかったようです。
一部土盛りなどをしていますが、瓦礫を撤去しただけで復興の兆しは全く見えません。
津波に耐え生き延びた傾いた松の木があわれを誘います。
こんな風景に接していると、福島の放射能問題も含め、「オリンピックどころじゃないな」という思いを強く感じます。>(水沼文平)

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立ち位置と主張の関係

世の中には、さまざまな論争がある。教育に関しても同じである。ゆとりvs学力重視、リメディアル教育vs学問、英語強化vs日本語重視等。
論争の主張を読むと、真逆のことを強く主張しているように思う。しかし、めざすところは同じ地点ではないかと思うことがある。
めざすのはゼロの地点だとして、現在マイナス10の地点にいる人(あるいは今の社会がマイナス10の地点にあると思っている人)は、プラス方向に向かうことを強く主張し、現在+10の地点にいる人(あるいは今の社会が+10の位置にあると思っている人)は、マイナス方向に向かうことを強く主張する。今向かうべき方向が、右(プラス)と左(マイナス)で、真逆の主張であり真向から対立しているようで見えるが、それぞれの立ち位置を考慮すると、目標地点は同じゼロ地点ではないないかと思うことがある。
たとえば、日本の教育改革が「ゆとり教育」に向かっていた時、アメリカの教育改革は「学力重視」に向かっていたことがある。それも対立した主張のようで見えて、受験競争の激化の弊害をなくそうと「ゆとり教育」に向かった日本の教育改革と、自由に走りすぎて学力が低下しそれを是正しようと「学力重視」に向かったアメリカの教育改革は、同じ地点(ほどほどのゆとりと学力重視=ゼロ地点)をめざしていたと、いっていいのでないか。

今日本では小学校への英語の教科化が決まり、英語教育に関して、早期から教えるべきか、また大学でも英語教育の強化を図るべきかをめぐって論争がある。
9月8日の朝日新聞の朝刊では、九州大学の施光恒准教授が「英語強化は民主主義の危機・分断を招く」と英語強化に反対の意見を述べていた。氏の略歴をみると英国の大学院卒とある。英語の得意な人だからこそ、このような英語重視反対の意見を強く言うことができる。多くの日本人は、英語に関してコンプレックスを持っているので、このような英語軽視の論を張ることはできない。無意識のうちに、自分の立ち位置に規定された発言(主張)になってしまう。主張(方向)だけでなく、発言者や社会の立ち位置も自覚する必要があるだろう。