発言の自由 -組織人の発言のありよう

日本で個人の「言論の自由」というものは保障されているのであろうが、それぞれの職業や職場や地位(あるいはその他の配慮)によって、思っていることを言えない、さらに思ってもいないことを言わざるを得ない、ということがあるように思う。
昔、藤田英典氏(東大教授)と遠山敦子氏(文部大臣)の議論をNHKのテレビで見た時、大学教員は自分の思ったことを言えばいいけれど、大臣(政治家)は、自分の考えと組織(文部省)の立場をミックスした発言をしなくてはいけないので、かなり高度な頭脳と技術を要するものだと思った。藤田氏の発言も鋭いものだったが、遠山大臣の発言も見事であった。

少し前に、文部副大臣の立場で、放射線量を隠し、福島の子どもを危険に晒した政治家がいたようだが、それはあまりにもお粗末で、その人を「教育に詳しい専門家」と持ち上げる人が党首(テレビでその発言を聞いた)では、その政党の惨敗も致し方ない。
 教育には素人支配の原則があるにしろ、教育に全く素人の有名人や政治家が、国の重要な政策課題の決定権をもっているのは怖い.
自分は教育の専門家だと自称しながら、「今の道徳教育の教科書は物足りない」と演説し、道徳は教科ではないので教科書はない、ことすら知らない(自称教育専門家)の街頭演説を聞いたことがある。
とりわけ、東大法学部や経済学部出身のエリート政治家が、「自分は何でもわかっているのだ」とばかり、教育分野で発言をし、影響力をもつのは恐ろしい。そこに利権も絡んでいたりする。今の入試改革論議も、予備校や塾の利権がらみと言われている。デジタル教科書に関する議論も利権がらみで、教師や子どもを置いてきぼりにされることのないように願いたい。

マスコミ人も、権力に抗して真実を伝えようとするマスコミ魂が、今の記者にあるのであろうか。多額の原発マネーをもらい、原発擁護の組織に属し、その御先棒を稼ぐ記者に、藤原新也は心底怒っている(shinya talk 7月24日)

教育は、地道な教育研究や教育実践を積み重ねている人の意見を聞いて、政策をすすめてほしいものである。
また、組織人といえども、個人の発言には責任があり、それを組織のせいにしてはいけない。