地震と「あきらめ」について

私自身、新聞をじっくり読む習慣がない。それでも読んで印象に残ったものや授業で使えそうなものは切りとっておこうと思う。それも忙しさのせいで忘れてしまうことが多い。少し前、哲学者の言葉で、地震とそれに対する心構えに関して、印象に残るコラムがあった。それを忘れないうちに、一部転記しておく。

巨大地震に襲われて 覚悟のいる「あきらめ」 佐伯啓思(朝日新聞、2016年5月5日朝刊より転載)

日本が地震大国であることは誰もが肝に銘じていたはずなのだが、ここへきて、改めてそのことを知らされた。阪神・淡路大地震から20年、東日本大地震からわずか5年。今度は、熊本・大分を中心とする九州中部の大地震である。その間にもいくつかの地震がこの列島を襲い、さして遠くない未来には、東南海や首都圏を襲うでログイン前の続きあろう地震による途方もない被害が想定されている。
この列島中を活断層が走っている。いずれ大地が鳴動することは間違いないものの、いつどこで生じるかわからない。ただひとたび生じれば、一瞬にして生命を奪われ、その生は断ち切られる。この瞬間を境目にして生の様相は一変し、生者と死者は不可避的に引き裂かれる。こういう不条理な不確定性のもとに誰もが置かれ、その不安や不気味さから逃れることができない。しかも、この「生への脅威」は、富裕層であるとか貧困層であるとか、老人であるとか若者であるとか、都会人であるとか田舎人であるとかとは関係なく、誰に対しても平等に襲いかかる。いかに近代社会が、等しく人々の生命財産を保障するという原理を打ち立てても、この不条理は、近代社会の根幹を一気に破壊してしまう。それがいまわれわれが置かれた状況である。
じっさい、活断層地図などというものを見せられると、生命尊重こそを繰り返して唱えてきた戦後日本が、実は何ともいいようのない生命の危機を内包していることがよくわかる。そしてこの事態を前にしてわれわれは立ちすくむほかない。(中略)
きわめて不安定な岩板(プレート)の上に日本列島があぶなっかしく乗っかっていることを知りつつも、ただただこの岩板の変動が最小限にとどまることを祈るだけ、ということにしたのである。さもなければ、東日本大震災から1、2年もたてば当事者を除いて震災の記憶は薄れ、3年もたてばまたもや、あの手この手を尽くした成長戦略を打ち上げ、株価の動向に一喜一憂するという、われわれの不細工な自画像を描く必要はなかったであろう。そして5年もたてば、また、東京オリンピックで建設ラッシュになり、インバウンド観光客の急増で大都市はたいへんな賑(にぎ)わいになったとはしゃいでいる。あの巨大地震の恐怖は、あっというまに、経済成長への期待と不安にとってかわられたのであった。つまり巨大地震については「あきらめた」ことになる。
しかし、この「あきらめ」は、真のあきらめではない。ただの思考停止であり、不都合なものは存在しないことにした、という消極的なものである。確かに、ここまで私的な所有権がはりめぐらされ、産業構造ができあがってしまった国で、根本的な防災対策はきわめて難しい。現状を動かしようがないのである。とすれば、「きたらきたで仕方なかろう」というのもわからないではない。
だが、本当の「あきらめ」は思考停止でもなければ敗北主義でもない。本当に「あきらめる」には覚悟が必要であり、それは容易なことではない。その覚悟とは、人智(じんち)を超えた巨大な自然の前にあっては、人間の生命など実にもろくもはかない、という自覚を持つことである。それは、生への過度な執着を断ち切り、幸福を物的な富の増大に委ねることの虚(むな)しさを知り、そして人の生も自然の手に委ねられた偶然の賜物(たまもの)であり、われわれの生命はたえず危機にさらされると知ることでもあろう。
かつて哲学者の和辻哲郎は、日本人の精神的傾向として「戦闘的な恬淡(てんたん)」といい、また「きれいなあきらめ」ともいい、それをきわめて荒々しい日本の自然風土と結びつけた。確かに日本人の「あきらめ」は、こうした人智を超えた「自然」への畏怖(いふ)と不可分であった。それはまた、今日のわれわれを支配する「近代的」生活や価値観を見直すことでもある。これは相当に「覚悟」のいる「あきらめ」なのである。(さえきけいし。京都大学名誉教授)