「加害者意識」の行方

小田実の「何でも見てやろう」は、旅行者のおりた視点からの考察に過ぎない、という江藤淳の批判は納得できても、小田実の「加害者意識」の方は、どうであろう。こちらは、なかなかな難しい。

ただ、次のように考えられないであろうか。

「加害者意識」という論理を推し進めると、究極は被害者の側に絶対的正義があるということになる。社会の一番の被害者や社会の最底辺の人の立場に立つことが、正義ということになる。この政策は、社会の弱者(貧困層、子どもなど)の為にならないからよくないという言い方になる。これはある程度(いやかなりの程度)正しいが、この論理に正面切って逆らえないだけに、多くの人(特に知識人)へのこけ脅しになり、常套的によく使われる。

社会のしくみは、どこでも加害者、被害者を生み出すし、また富んだものと貧しいものを生み出すのであって、それを完全に否定しては、社会は成り立たないし、人は生きていけない。それを少しでも少なくする努力をすることは大切であるが、それの徹底を理想とすることは、逆にファシズムに繋がる。これは、差別や格差問題だけでなく、いじめ論やジェンダー論にも通用することだと思う。

「加害者意識」という論理は、その後消えていった。しかし、ある程度は正しい論理なので、再考してもいいのかもしれない。