幕張の浜で夕涼み

蒸し暑い日が続いている。昨日(28日)は、暑さでバテ気味のソフィーを車に乗せて、幕張の浜へ(ここは、8月3日の千葉市の花火の打ち上げ場所)。
もう日が沈んだ後で、海からの風が涼しい。遠くに幕張副都心。スリランカ出身の素敵なカップルと一緒に写真を撮る。犬にも時々、気分転換と夕涼みが必要だ。

『若き日に薔薇を摘め』

瀬戸内寂聴・藤原新也『若き日に薔薇を摘め』河出書房新社、2013年6月刊。

この書簡集の中味は、年寄り向けに書かれているわけではない。「若き日に摘み取った薔薇の蕾は人生の後半において、あるいは老いの中で花を咲かせるのだ」(p212)とあるように、二人の青春も振り返りつつ、含蓄のある話が満載である。
寂聴が「ほのかな色気が手紙には漂ってくる時もある」と書いているように、ドキドキするような手紙のやり取りだ。
この書簡の初出の「the寂聴」という素敵な雑誌が出ていたことも今回知り、何冊か手に入れた。

この中で、藤原新也は、歳を取ってからの健康法について、車のたとえで、「ときおり速度違反くらいのターボをかけること」をあげている。それは、「ほどほどの力を出しながら世の中を切りぬけていく」老いの術の対極にあるもので、ターボの後の休息を充分に取り、「踏む必要もないアクセルを踏まない」ことが必要と言う。心にとめておこう。

授業は人との出会いの場

「授業は人と人との出会いということだ」と知人の先生のメールに書かれていた。その先生は、大学の非常勤の授業の最後に、数人の学生から色紙をもらったという。よほど、学生たちはその先生との出会いや授業に感激したのであろう。
1~2年間のゼミの最後に学生から色紙をもらうことはあっても、半年間の大人数の授業の最後に色紙をもらうことは普通ない。その先生の授業への熱意が、学生の感銘を引き出したのであろう。

専任の大学の授業より、非常勤で教えている授業の方が、熱が入り、丁寧な授業を行うような気がする。実際、大学の非常勤手当は少なく、1コマに払われる手当は、専任の10分の1程度だと思われるが、専任校の授業より非常勤校の授業の方が、熱心にやってしまうのではないか。学生にとっては、1コマの授業として、専任も非常勤も関係なく(よく知らないというのが実情だと思う)、教員の熱心さと授業の中身に反応することであろう。

私も今年非常勤で行っている大学の半期の講義で、最終日の試験を行い、試験答案を受け取りながら、毎週熱心に授業を聞いてくれた学生たちと、これ以降、一生会うことがないだろうという「事実」(可能性)に驚いた。
(以前に、めったに会わない高齢の先生に、共通の知り合いの人の葬儀で会い、帰りに駅までご一緒し、別れの挨拶をした時、「この先生とお会いするのも、これが最後だな」と感じたのと、同類の気持である。

残り少ない(?)人生、人との出会いを大切にしたい。授業も同じことだ(後何回、授業を担当出来るのか?)。

大学教育と職業との結びつき

大学教育と職業との結びつきは難しい。
かっては、企業内訓練もしっかりしていたので、大学入試で計られた一般能力さえあれば、職業人としてしっかりやっていくことができたのであろう。
それが、今、不況で企業内訓練の余裕はなく、また職業で有用な知識も多様化、高度化している為、大学教育での対応が求められている。3つの方向があるという(金子元久氏による、「教育学術新聞、6月12日)
① 職業教育化(キャリア教育の充実、資格習得重視)
② コンピテンス(汎用能力)の育成―社会人基礎力、若年者就業基礎力、学び続ける力の育成
③ 知識技能、コンピテンス、人格形成を結びつける、学生の自主的学習の構築

私たちの研究グループの考えている「コミュニティとしての大学」もこれに近い。大学での多様な活動の奨励を考えている。

地方の私立大学の存在意義

大学の存在意義は、全国区や大都市の大規模な大学と地方の小規模な大学では、違っている。
同じ土俵で競争させられ、競争力が弱く、定員割れを起こしている大学に対して、文部科学省は「努力が足りない」と叱責し、補助金を減らし、果ては設置認可まで取り消したりするのは少し違うのではないかと思う。
大企業を優遇するのではなく、地方の中小企業を支援するように、地方の弱小大学を支援することも必要だ。それが、地方の若者の進学機会を保障し、学びを支えることになり、地方の活性化に繋がる。

その点を、新潟国際情報大学の平山雅夫学長が明確に述べている(教育学術新聞6月12日号)

<高等教育を受ける機会の地理的平等に一定の配慮をするならば、定員を割ったら支援カットするのではなく、人口減に苦しむ地域でも高等教育を受けられるようにすべきである。(中略)そうしないと地域から私大は消え、若者もいなくなる。教育は競争によって淘汰されてよい産業ではない>