大学生とのやり取り

知り合いの大学生から次のような、今の日本の大学教育と大学教師への疑問のメールが届いた。外国の大学を見て来て、日本の大学とその教員の様子に疑問と義憤を持ったようだ。その遠慮のないいい方に、若さを感じた。そのやり取りの一部を紹介する。
 Aさん(国立大学4年生)からのメール
<ただ今、秋入学の議論が出ていますが、なぜ教育内容の議論をしないのでしょうか。秋入学の時期の議論とその期間の活用法に終始するだけで、今までの大学教育の内容を見直さないのはなぜでしょうか。
(日本に)留学したい学生は、(日本の)大学に魅力を感じれば留学すると思います。 私はB国出身の先生や日本人院生とお話しする機会がありましたので、日本の大学について聞いてみました 。簡単にいえば、(日本の大学に)「魅力がない」とのことです 。
日本の研究レベルは一定数あるが、教育レベルが低く、学生の力がつかないとのことでした。英米圏の大学では、教育の充実に力を注ぎ、卒業後に学生がその力を活用して就職できるようにするそうです。こちらの先生はどんな小さな質問にも答えてくれます。それはB国の場合ですが、大学教育の評価は教育の比重が強く、シラバスに従わず学生の結果が出なければその教育費の全額を国に返還しなければならないからです。
高額な授業料と住居費を学生に支払わせて、自らの研究にのみ集中し、講義はおまけスタンスの大学教員さんのお考えが分かりかねます。大学教員の著書をみますと、大学擁護と学生批判がよく出てきますが、彼らの矛盾に疑問を思います。勿論、学ぶのは学生次第です。しかし、(今の)大学生の多くが、今までの大学のスタンスに適応できるとは思えません。
日本は技術で生きる国ですから、研究の充実は絶対に必要です。しかし、大学側は「学生」という存在を考慮しているとは思えません。日本人として日本の向上を考えれば、次世代を担う学生の教育に終始してもいいと思います。研究だけではなく教育の充実も同様に国の繁栄に繋がると思います。
なぜ大学教員方が、留学を推奨する大学側が秋入学の時期とその空白期間だけを議論しているのかが分りかねています。

私の返事
<メール、ありがとうございました。日本の大学教育システムに関するご意見、疑問の文章、ありがとうございました。
上智大学に私がいた時でも、アメリカやヨーロッパの大学に留学した学生が、いかに海外の大学の教育が素晴らしくいかという学生が多くいました(武内清編『キャンパスライフの今』玉川大学出版部、2003、p19-20)。ただ、アメリカの大学の様子も、それほど理想的なわけではありません (私も1年、Wisconsin大学での見聞を書いたことがあります。「アメリカの教育事情―Madison (UW)での見聞、体験を中心に―」『上智大学教育学論集30号』)
 日本の高等教育のあり方に関する論議は、文部科学省のレベル(中教審や大学審議会答申)から各大学のレベルまで、いろいろあります。全体には、研究重視から教育重視の方向に移行し、大学の学校化、学生の生徒化が進んでいます。これが、いいことなのかどうか、議論のあるところです。
9月入学は、東大が言いだし、マスコミを取り上げましたが、それは1時的なもので、高等教育のあり方に関する重要な話題ではないと思います。
大学は高校までと違い、学生の自主性をいかに伸ばすかということが重要なことなので、大学教育が、またその内容がどのようにあるべきかは、難しく、大学教師が、研究時間を削り、教育に専念すればいいという問題ではありません。また、職業に役立つ専門学校のような大学に皆なればいいわけではありません。先日開かれた大学の学修支援のシンポで、いくつかの大学の先進的な取り組みを聞きましたが、それは一つの方法であり、すべての大学に応用できる方法ではないと思いました。個別の大学により、伝統や学生の質や、いろいろ違い、一筋縄では、いかないようです。>

年寄りの元気の源は?

80歳を超えておられると思われる東大名誉教授の水野 丈夫先生は、今でも被災地の小学校で授業を行い、子ども達がその内容に感激しているという。先生は最近白内障の手術を行いよく目が見えるようになったので、いろいろ本を読み、語学の勉強もはじめられたとのこと。
元同僚の加藤幸次先生(上智大学名誉教授)のお宅に電話をしたら、今韓国と中国を旅行中とのこと。
このような歳とってからの元気の源はどこから出てくるのだろうか?

写真家の藤原新也もやけに(?)元気。その源を次のように書いている。

<私は現在68歳だが、早熟な私は8歳の頃から人生を考えはじめ(いずれ自叙伝で書くことになるが)60年間考え続けているのだが、いまだに人生というものがわからないのである。というより昨今歳を重ねるごとに妙に元気が復活し、また元気になるごとに人生のさまざまな新しいことが降りかかり、未解決の問題が増える一方だ。それは生きる糧を与えられているということに他ならない。
ただそういう混乱の過程渦中の中で目の前に立ち現われたものに真摯に向かい合い、あきらめることなく考え続けることこそ、頭というものを持った人間の役割だと思っている >
(藤原新也 CATWALK,3月27日より転載)

坂本昂先生のご冥福をお祈りする

東京工業大学名誉教授の坂本昂先生が、3月22日にご逝去されたというお知らせをいただいた。ご冥福をお祈りする。
今から40年近く前、私は院生の頃、東工大の坂本先生の研究室に通い、学校の授業をビデオに記録し分析する工学的手法を学び、先生が機械(アナライザー)を駆使しての大学での名講義に出させていただいた。その時、先生の秘書の聖心女子大出身の女性がとてもきれいで上品で驚いた。このような上品な先生や雰囲気は私の専攻する教育社会学の分野には皆無だったので、そのギャップに戸惑った。(「教育社会学の分野は、下の階層から成りあがろうとするものが幅を利かせている」-これは私の偏見?)
その後、お会いしたのは、先生が大学入試センターの副所長をされていた時で、センター内の研究会での我々の研究発表を聞いていただき、的確なコメントをいただいた。
 ここ数年は、中央教育研究所の理事会・評議員会で、年に1~2度お会いすることがあり、お体を少し壊されているようではあったが、お元気な姿や発言をお聞きし、歳をとってからも、このように、意欲的に努力することが必要と、感心させられていた。急なご逝去であった。心よりご冥福をお祈りする。

大学のゼミの適正規模

教育の研究では、よく学級規模や学校規模の研究がある。
私も昔、「高等学校の適正規模の研究」という共同研究に参加したことがある。それはちょうど第2次ベビーブームの高校増設の時で、どのくらいの規模の高校を作ればいいのかが緊急の課題だった時代である。標準は1学年6学級くらいだったと思うが、1学年10学級や12学級の学校を作った方が経済的効率はよく、その場合、教員同士の関係や教育効果は大丈夫なのかを調べた。
結果は一律には言えず、指導法の確立している伝統校は大規模しても大丈夫だが、新設校で大規模校を作ると、教員の意思統一が図りにくく、新設校の偏差値の低さもあり、教育指導、生活指導に困難をきたすということがわかった。
学級規模に関しては、小さいほどいいと考えられているが、僻地などの学校様子でわかるように、あまりに学級人数が少ないと、子ども同士の交流も限られ、いいとは言えない。
私は、小学校では50人、中学校では60人弱、高校50人くらいの人数だったが、学級はそのようなものだと思っていたので、多すぎて困ったという記憶はない。先生との距離もちょうどよかったように思う。
大学のゼミ(演習)は、何人くらいが適正なのであろうか。少人数教育を特色にしている敬愛大学で今問題になっている。
これは、学生の特質にもよるように思われる。多様な留学生いる場合、個別指導が必要になるので、なるべく少人数の方がいいようだ。ただ、かなり同質の学生が集まっている場合、少人数である必要があるかどうか疑問だ。
学生の視点からも考える必要がある。ゼミの人数により、教員と学生との距離に関して違いが出てくるし、それ以上に学生同士の関係に違いがあるように思う。
私の経験では、自分の学部の専攻の同学年は私も含めて6人(男5人、女1人)で、この6人で多くの授業を受け、調査実習の作業などもすることが多かった。私にとって、これは人数が少なすぎて苦痛であった。その時入っていたサークルの同期は30名いて、こちらの方が気楽に交友できる人数であった。
 私が最初に勤めた武蔵大学では、「ゼミの武蔵」と言われ、1年から4年までゼミがあり、私のゼミは「青年期の社会学」などの気楽なテーマだったせいか人数が多く、いつも各学年20人は超えていた。(4学年で、80人くらいのコンパをやったこともある。夏の自由参加のゼミ合宿も40人以上参加が普通であった)
次に勤めた上智大学教育学科では、3年からゼミがあったが、3年次は2つのゼミが必修だったので、20人以上のゼミが普通だった。(2年くらいからゼミがあってもいいと思ったが、学生からは「そんなに永く教員と関わりたくない。2年間で充分」と言われた)20人を超えると、教員と学生との距離は遠く、気楽な関係だったと思う。合宿やコンパをよくやり、望む学生との距離は近くなることはあったが、それは強制ではなく、これが教員にとっても学生にとっても、心地よい距離だったと思う。(ただ、研究室の大学院生は数人で、親密だったと思う)
 今の敬愛大学では、少人数をうたっていることもあり、1年からゼミがあり、そのゼミ人数を10人以下にしようとしている。私のようなものには、少し息苦しい。学生が息苦しさを感じていないのであればいいが。

ヒロシマからフクシマへ

原発に関する表立った反対行動より、原発に関する社会学的考察の方が、
人々を脱原発に駆り立てる役割を果たす場合もあると思うことがある。すぐれた社会学的考察を目にした。

「ヒロシマでもっと苦しんだはずの市民が、いかにして「原子なるもの」を受け入れてしまったのか。その答えは、意味転換にある」「意味転換の前にもいくつかの操作がわれわれは行っている。第1に意味漂泊である」「それはヒロシマという負の歴史から、ヌ―クリアのみを脱文脈化することであった。第2に、相反する意味の連結の正当化である。」「ヌ―クリアに対する積極的な正の意味付与である。個人の幸福の根源、日本社会の戦後復興に必要なエネルギーの無尽蔵の供給源として、未来の明るい日本社会を支えるものとして、ヌ―クリアは新しく生まれ変わることになる」

野宮大志郎氏(上智大学外国学部)の「『ヒロシマ』から『フクシマ』への道―ヌ―クリア(原子なるもの)の意味転換」(「ソフィア」236号、2012.2、p420-436)には、ヒロシマで核の恐怖を持った日本国民が、原子力発電でもたらされる「豊かな社会」を無意識に享受するようになったメカニズムが鮮やかに分析されている。
そこには、戦後日本の原子力エネルギー政策、国際政治、マスコミの力の他、
知識人の果たした役割も描かれている。たとえば、「大江健三郎は、科学者として東海村原子力発電所で働く夫妻を取材し、その活躍と彼らの明るい未来を示唆する」(「毎日グラフ」1961年9月3日号)など。