学校の部活動について

首都大学東京の西島央氏より、ご自身も一章原稿を書いている『運動部活動の理論と実践』(友添秀則編、大修館書店、2016年7月)を送っていただいた。
今、教員の多忙化軽減や「チームとしての学校」などとの関連で話題になっている部活
動の指導に関して網羅的に論じた本であり、部活動に関していろいろ考えさせられた。
西島さんには、『子どもと学校』(武内編、学文社、2010年)の中でも、部活動に関していい論稿を書いていただいたことがあり、この本の中でも、教育社会学の立場から、調査データにもとづき、示唆的な視点を提示している。
学校の部活動は「居場所として」(学童保育、趣味縁など)、「スポーツ・芸術活動を享受する社会的機会の平等化」などの機能を果たしているという。
部活動のこれからのあり方に関しても西島氏は具体的な提言をしているが、教育社会学の立場から、実践的な問題や政策的な課題に切り込むことの難しさも感じた。

西島央さんより、下記のコメントもいただいている.

<お送りしました本は、運動部に限られてはいますが、運動部活動に関して、さまざまな角度から学術的・実践的に論じた、初めての体系的な研究書だと思います。
編者の友添先生は、筑波のご出身で、専門はスポーツ倫理学で、早稲田のスポーツ科学部の学部長をお務めで、国のスポーツ政策や体育政策に関わる審議会などには、スポーツに関する文系の学者の第一人者として参加なさっています。
スポーツに関する研究は、筑波、早稲田、日体大、そして東大などで盛んに行われていますが、学校教育における部活動の実証研究をずっとしているのは私達の研究会くらいしかないのではないでしょうか。
部活動について問題を抱えているのは運動部だけではありません。文化部についても、とくに音楽系を中心に、運動部並みの活動をしているところや、反対に、指導者がいないところ、なぜか生徒会が文化部と並列になっているところなどもあり、きちんとした検証が必要だと思っています。
私は、首都大や東大などの講義で、定点観測的にほぼ同じレポート課題を出して、自分の関心のあるテーマについて、データを挙げて論じさせているのですが、部活動をテーマにとりあげる場合、去年までなら、ほとんどが部活と勉強の両立という生徒側の問題で、しかも、その多くが、部活肯定論でした。ところが、今年になって、大半が、教師の多忙化要因論で、部活に対して否定的な見解を示すものになりました。去年までの大学生の中高時代には問題がなく、今年の学生から問題が突然生じたはずもなく、まるで流感にかかったかのように一気に社会問題化し、それを鵜呑みにしている状況には、全体主義的な怖さを感じます。
実際には、むしろ2000年代初め頃までより、部活動の活動時間は短めになり、先生方をサポートするしくみもできてきていて、今指摘されている問題は改善されているというのが、長く研究をして現場に接していて感じている実感です。
そうであれば、社会問題となっていることは流感のようなもので、みんな問題視しているが、実際はこうだということを冷静にデータに基づいて指摘する必要があるとも思います。ご指摘の、教育社会学が実践や政策にどう関われるかは、教職課程から外されたことも含めて、学会を挙げて真剣に取り組まねばならない課題だと思います。
教育社会学の多くの方々、重要な教育問題に取り組んでいらっしゃいますが、文科省の政策や学校現場に活かされていないとしたら、(活かすという意味は、政策や実践を支えるだけでなく、批判することも含まれます) 学問の存立基盤の一部に関わる大問題だと思います。教育社会学のスタンスの取り方というのは、とても難しいものだと、痛感しています。>

子どもの散歩(外での刺激)

幼い子どもは、テレビやビデオを見て室内で過ごすことが多い。特に夏は外は暑く、また朝夕外に出ると蚊がいて、刺されたりする。
それでも、外の方がいろいろ刺激が多く、育ち盛りの子にとっては、多様な刺激が大事である。猫をみたり,モニュメントみたり、季節の花を見たり、バスをみたり、小学生の野球をみたり、アリを見たりと、外は成長に役立つ刺激が多い。

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鬼の角は1本か2本か?

歳を取ると物忘れがひどくなる。少し前に置いたものが、どこに置いたか思い出せない。内容は思い浮かぶのだが、そのことがどの文献に書いてあったか思い出せない。以前にブログに書いたような気もするのだが、正確に思い出せない。大目にみていただくしかない。

これは友人の山本雄二氏がどこかに書いていたものだが、「鬼の角が1本なのか、2本なのかの熱くなっての論争がある。だが、そもそも鬼が存在するのかどうかは問われていない」という指摘をしていた。
とても鋭い指摘だと思う。またこれは社会学的考察の真骨頂であろう。

異性(女性)にたいする幻想

村上春樹の短編に、あこがれていた女性の現実の姿を、覗き見によって知ってしまった若い男性が、そのあこがれがなくなっていく様子を描いたものがある。(「野球場」『回転木馬のデット・ヒート』(講談社文庫、1988年)

仏文学者の多田道太郎が、名著『管理社会の影』₍日本ブリタニカ、1979年)の中で、次のように書いていて、感心して読んだことがある。

<恋愛についていえば、それはオリジナルの向こうに、オリジナルを超えて自分だけの夢をみることである。自分だけのコピーをつくることである。(中略)それはコピーの向こうに、コピーを超えて、自分だけの夢、自分だけの「オリジナル」を夢みることである。もし,ほんとうのオリジナルである女優が彼の前に現われれば、彼は「それは違う」といわざるをえまい。>(21ページ)

このように、あこがれや恋愛は、現実の異性(女性)を見ているのではなく、自分の夢(幻想)を、その異性(女性)を媒介にみているだけで、現実の異性(女性)が目の前に現れたら、「それは違う」といってしまうのであろう。

ここからどのような教訓(実践的課題)を引き出せばいいのあろうか。女性に、「永遠の嘘をついてくれ」(中島みゆき)と頼めばいいのであろうか。

 

 

 

 

リメディアル教育についての議論

先の学校社会学研究会で発表のあった「リメディアル教育」について、私と鷲北さんとで次のようなやり取りがメールであった。

(武内) 鷲北さん、児玉さんの論は8割方 賛成なのですが、2割ほど、違和感があります。 その2割は、私の古い体質(エリート体質?)からくるものなか、教育社会学的発想からくるものなのか、 あるいは、別のものなのか、検討しているところです。
「大学教師は、研究者であると同時に教師なのだから、その教師役割を果たさなければならない」というのは 正論なのですが、それが正論ゆえに、教育社会学の立場からすると、そのような上から(あるいは下から)目線の 「押しつけ」には、違和感を感じざるを得ません。 また、適材適所ということから考えると、大学研究者は、そのような教育には向いていなくて、人を変えるか、大学を変える必要があるとも考えてしまいます。

(鷲北) 武内先生が指摘してくださった、『そのような上から(あるいは下から)目線の
「押しつけ」には、違和感を感じざるを得ません。』の件ですが,私は、10年前から上記のような主張をしています。最初はもっと弱いトーンでした.
つまり、「こういった現場もあることを、ご理解いただきたい」というトーンです。
しかし、上位校の先生方から「あなたは(あなた方は)間違っている」「大学とは、そういうものではない」という上からの押し付けというか、自分たちが絶対に正しいきみらは間違っているという趣旨の発言ばかりだったので上からの強い意見には、下からの強い主張で対抗する。山本先生がおっしゃった「仮想敵」ではないですが、「あなた方の理想論で、現実は救えるのか」という問いかけです。
私にしろ、児玉にしろ、LEC大学での格闘の日々が、問題意識のルーツになっているのでしょう。この大学は、アカデミズムを持ち込んだ結果、他大学との差異がなくなり、定員割れ、廃校となりました。学校社会学の二日前は、この問題をリメディアル学会で問うてきました。

リメディアル教育に関する鷲北さんの論文に関しては、東大の大学院時代の後輩の小島秀夫さんより、下記のコメントをいただいた。教育社会学が専門の大学教員らしいコメントだと思う。「個別的には大学教員も取り組んでいる」という指摘は鋭いと思う(許可を得て掲載させていただく)。

武内様
ご無沙汰いたしております。鷲北様のリメディアル教育の原稿を読みましたので、感想など。
この原稿を読んでみて最初に思い出すのは、かつて問題にされていた高校間格差と同じだということです。
この問題もいろいろ議論されたと思いますが、結局は改革はなされなかったと思います。これと同じ問題を現在では大学でも抱えているということだと思います。
私もリメディアル教育には賛成ですが、個別的には大学教員も取り組んでいると思います。すわわち、学生のレベルに合わせて教え、単位を出しているということです。それを組織的にやるかどうかということは、大学のプライドもあり、コンセンサスを得るのは難しいと思います。
私の経験からするとリメディアル教育は、重要ですが、効率が悪いと考えています。その理由としては、以下のようなことがあると思います。
・リメディアル教育の対象となる学生は、基礎学力がないために、そもそも勉学に対する意欲が低い。したがって、教育資源の投資に見合う教育 効果がだせない。
・こうした学生はしばしば経済的な困難を抱えており、アルバイトなどをしないと生活ができないため、勉学に集中できない。教科書や参考書なども 気楽に購入できない、などの問題があります。
・大学の授業時間では継続的に勉強ができない。1週間に一度程度では、勉学意欲を継続できない可能性がある。
大学の教員の側の問題としては、以下のようなことがあると思います。
・大学の教員のプライドがこうした教育をやるの阻止する。
・現実問題として、研究業績が重視される。
こうしたことがありリメディアル教育が成功するのは非常に困難かと思います。繰り返しになりますが、私は再チャレンジするこの教育に賛成です。(小島秀夫)

追加(上記に関して、鷲北さんより、下記のメールをいただいた)

自分の進学先が、百校計画で出来た新設高校。高校全入運動、神奈川県では県立高校百校計画の時期に高校入試。高校をたくさん作って、高校の質保証など議論されていた時代でした。最初に教壇に立った現場が、川崎のヤンキー高校。この体験も、自分の問題意識のルーツにあるかもしれません。高校の現場に関しては、エリート高校もあれば、エンパワーメントスクールが有っても、それぞれの役割あって、いいじゃないのという方向で、収束していると認識しています。大学もこういった階層別の役割というか、それがそろそろ認知される時期になって来ないのはなぜか?という苛立ちの日々です。(鷲北)