優れた社会学者の文章

5年に一人くらい、東大社会学科から卓越した社会学研究者が生まれるという話を聞いたことがある、橋爪大三郎氏(東京工業大学教授)もその一人であろう。多くの著作を出し、その話を社会学会で一度聞いたことがあるが、他の人と、オーラが違った。
橋爪氏の書いた書評「日本近世の幅と奥行き;『定本 上田秋成研究序説、高田衛著』」を読んだが、いい文章で、文学的香りに満ちていた。さすがだと思った(一部書き写して、勉強しておこう)。

 「高田衛氏の文体は端然、透徹,創意に満ち、柔軟なバネのような弾力でためらいなく議論を思う方向に進めていく。江戸中期、政治や経済の選択肢が限られていた時代に、かえって思索の翼を自在に羽ばたかせた知性がいた。秋成という個性の解明でありながら、国文学の枠を越えた普遍的な視野を与えてくれる」 「縦横で実践的な精神。市井に生まれ権威と無縁に生きた秋成を通して、日本のプレ近代の幅と奥行きが照らし出される。後世に残したい秀作である」( 読売新聞・2012年12月9日朝刊)

新井真人氏の冥福をお祈りする

 大学院時代6年間一緒に学んだ新井真人氏(元秋田大学教授)のご逝去の知らせを先輩から受けとった。心からお悔やみ申し上げる。
 新井真人氏は、埼玉大学教育学部出身で、東大の大学院に進学してきた人で、とてもまじめで語学もよくできた人だった。一緒に、行った大学院合宿や、T.パーソンズの社会学理論の本を当時助手だった小野浩氏の指導の下に読んだことや、新井郁男先生のもとで、一緒に「道徳教育」の本の翻訳をしたことが懐かしい。
 お互いに就職してからは、年に1度の「教育社会学会」の大会や、「学校社会学研究会」の夏の研究会で会うだけだったが、同期ということで、何でも話せる数少ない友人の一人という気持ちでいた。私たちの結婚式の司会も、新井氏にお願いした。その親しい友人が先に、旅立たれたのはさびしい。
 新井氏の「職業的社会化」の業績(論文、著書)を読み直し、新井氏を偲びたい。

就職フェア(懇談会)

今日(12月11日)は、敬愛大学の就職フェア(懇談会)が海浜幕張のホテルで開かれ、参加した。地元の企業と地元の大学の関係は、中央にはないあたたかさがあった。ホテルの外は、クリスマスのイルミネーションが綺麗であった。

学生のスピーチ

今日(12月11日)の敬愛大学の「教職概論」の授業では、学習指導要領の総則部分の説明の後、学生のスピーチを行った。
どちらも、教員採用試験を意識しての内容である。前者は1次試験対策、後者は、プレゼンの要求される2次対策。
しかし、後者は、試験対策以上の成果があった。学生のプレゼンの仕方や内容がよく、私も教えられることが多くあった。
今日のスピーチは、自主的なスピーチで、5人4組のプレゼンが行われた。スピーチのテーマ自由で、今日は、「国語辞書について」「死刑廃止論について」「スピーチの仕方」「相田みつを」の4つがあった。それぞれ、10分程度のプレゼン(スピーチ)であったが、話し方も工夫され、内容も心打たれるものであった。学生たちも「私の講義の時には見られない真剣さ」(?)で聞き入っていた。
「相田みつを」のプレゼンでは、その詩が展示されている美術館(http://www.mitsuo-tv.com/index.php)に行き、学生(二人)が、心打たれた詩の紹介があった。それぞれいい言葉だ、と感心した。

学会と若者(大学院生)

日本経済新聞社編集委員の横山晋一郎氏が、学会(今年の「日本教育社会学会」と思われる)に参加して、驚いたエピソードを書いている。
 ある部会で、旧帝大系の大学院生二人は、自分の発表が終わると、後の総括討論を待たず、「用事がある」と言ってさっさと退室してしまったという。自分の発表が終わっても、総括討論で、「報告への質問にきちんと対応し討論に加わる」のが常識なのに、それを無視しての行動である。学会を言いぱなしの「ブログやツイターの場と同じ」と思っている。「議論を放棄するならば、学会に来る意味がない。こんな基本すら誰も教えないのであろうか」と嘆いている(『IDE,現代の高等教育』、NO545、2012年5月号、74頁)。
 またこれは中堅の大学教員から聞いた話であるが、同じような若者(大学院生)の行動がある。
 ある学会(多分「日本社会学会」)の家族の部会で、ひとりの院生の発表に、質問した年配の人がいた。「所属のない○○というものですが、今の発表の××の部分は△△ではないのか」と穏やかに質問したところ、その院生は、その質問は的外れで、自説がいかに正しいかを得々と語ったという。質問者の○○というその分野の金字塔のような存在の大御所(多分森岡清美先生)の名前すら知らないようで、周囲にいた人は呆れたという。
 このようなことは、日常茶飯事かも知れない。若さには無謀と無知が同居している。
 
 私が学会(「日本教育社会学会」、「日本社会学会」)に参加した時(半世紀も前)は、本や論文で読んだことのある人(学者)が目の目にいるということだけで感激した。
 東大の先生(清水義弘、松原治郎、宗像誠也、青井和夫、尾高邦雄、綿貫謙治、中根千枝)の授業は受講していたので感激ということはなかったが、学会で、小山隆、新明正道、富永健一、作田啓一、T・パーソンズ、ハビィガストという人を見た時は、感激した。
 その著書を繰り返し読んでいた作田啓一(当時、京大教授)が、社会学会の部会の司会をしている時は、作田啓一を見るためだけにその部会に行き、作田啓一だけを見ていた。
 現在は、若い院生にこのようなことは全くないのかもしれない。