学会と若者(大学院生)

日本経済新聞社編集委員の横山晋一郎氏が、学会(今年の「日本教育社会学会」と思われる)に参加して、驚いたエピソードを書いている。
 ある部会で、旧帝大系の大学院生二人は、自分の発表が終わると、後の総括討論を待たず、「用事がある」と言ってさっさと退室してしまったという。自分の発表が終わっても、総括討論で、「報告への質問にきちんと対応し討論に加わる」のが常識なのに、それを無視しての行動である。学会を言いぱなしの「ブログやツイターの場と同じ」と思っている。「議論を放棄するならば、学会に来る意味がない。こんな基本すら誰も教えないのであろうか」と嘆いている(『IDE,現代の高等教育』、NO545、2012年5月号、74頁)。
 またこれは中堅の大学教員から聞いた話であるが、同じような若者(大学院生)の行動がある。
 ある学会(多分「日本社会学会」)の家族の部会で、ひとりの院生の発表に、質問した年配の人がいた。「所属のない○○というものですが、今の発表の××の部分は△△ではないのか」と穏やかに質問したところ、その院生は、その質問は的外れで、自説がいかに正しいかを得々と語ったという。質問者の○○というその分野の金字塔のような存在の大御所(多分森岡清美先生)の名前すら知らないようで、周囲にいた人は呆れたという。
 このようなことは、日常茶飯事かも知れない。若さには無謀と無知が同居している。
 
 私が学会(「日本教育社会学会」、「日本社会学会」)に参加した時(半世紀も前)は、本や論文で読んだことのある人(学者)が目の目にいるということだけで感激した。
 東大の先生(清水義弘、松原治郎、宗像誠也、青井和夫、尾高邦雄、綿貫謙治、中根千枝)の授業は受講していたので感激ということはなかったが、学会で、小山隆、新明正道、富永健一、作田啓一、T・パーソンズ、ハビィガストという人を見た時は、感激した。
 その著書を繰り返し読んでいた作田啓一(当時、京大教授)が、社会学会の部会の司会をしている時は、作田啓一を見るためだけにその部会に行き、作田啓一だけを見ていた。
 現在は、若い院生にこのようなことは全くないのかもしれない。