小さな花火大会

昨日(6日)は、千葉の外房の御宿で小さな花火大会があり、見に行く。

さほど大きな花火もなく、花火の本数も1500発と少な目で、30分ほどで終わるので、観客は少なく、打ち上げのそばで見ることができ、それなりの迫力はある。

3歳の子と半年になる子と一緒に見たが、3歳の子は花火が始まるとすぐ胸に響くと嫌がり退散し、半年の子は大きな音に少し泣きじゃくりながらも耐えて時々花火の方に目をやっていた。大人の都合で、幼い子ども達には、いい影響は与えなかったかもしれないと少し後悔する。

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高原で涼む

夏はやっぱり高原、ということで、涼を求めて高原へ。

軽井沢に行きたかったが、このシーズンに宿が取れないだろうと諦めて、人の少ない新潟へ。

関越から上越に入り、月夜野インターで降り、カーブの多い三国峠を越えて、苗場へ(標高千メートル)。

苗場は、先週フジロックが終わり、祭りの後の寂しさが漂う。かっての苗場の賑わいはどこへやら、行き来する車も少なく、人も少ない。広い範囲に人が一人も見えないところもある。苗場の名所のひとつボードウォークも誰ともすれ違わず、熊の出没を恐れたほど。

苗場を拠点に、湯沢町、六日町、十日町まで足をのばし、温泉、食事処、森林、美術館などを楽しむ。

夏の一番暑いとき、3〜4日でも、高原の涼しさの中に身を置いてみると、(そして数多くの温泉に入ると)体に優しく、この暑い夏を乗りきれそうに思う。

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ジャーナリストとしての藤原新也

藤原新也の本を最初に読んだのは、『アメリカ』。アメリカを10ヵ月かけて車で回った旅行記(写真付き)。その後、『印度放浪』『逍遙游記』『全東洋街道』『メメント・モリ』などのインド関係の旅行記を読む。アジアの視点から見た『東京漂流』の斬新さに衝撃を受ける。

写真集、評論の他、小説も書いていて、藤原新也は、幅広い人だと思っていたが、下記の文章を読むと、ジャーナリストではないかという気もしてきた。

<昔こういう難題を持ち出した人がいた。農民は日々額に汗し畑を耕し、作物をつくり人々に提供している。だがもの書きは机上で無形な言葉を編んでいるだけではないか。

私はそれに対し、作家も農民も同じこと、作家もまた日々額に汗し畑を耕し、言葉のポテトを収穫し、人々に提供しているのだ。と述べている。

いったいに無形のものを軽んじるという傾向はどこの世界もにあり、とくに危険な国に行って取材をするジャーナリストの自己責任を問う声は多い。確かにそのジャーナリストも人間であり玉石混交、いかさまもいるだろうし、信念を持つ者もいるだろう。そしてこの論考の俎上にはいかさま者を当然除外している。

その上において言うならジャーナリストの収穫するポテトとは事実と真実を実際の現場で見極め、広く報告することである。そしてそれは人間が生きて行く上において必要な”食料”なのである。

このネット情報化社会である今の世の中は、その二次情報三次情報の多くは操作されたもの、あるいは根拠のない憶測から生まれたものとみなしてよいだろう。

今でなくともナチスの情報操作に踊らされたドイツ民族の所業とユダヤ人の末路というものを私たちは知っている。そういう意味では情報化社会において人々が烏合の衆となりつつある今の世界の現状は危ういと私個人は感じている。

そんな状況の中においていかに事実を見極めるか、それを果たすには実際の現場に行き、一次情報に触れ、それを発信する方法はひとつの有効な手段であり、また必要不可欠なことである。ジャーナリストにはそういう役割があるということを知ってほしいのだ。そして彼らも農民同様、額に汗し、時には自分の命を世界に曝し、知恵のポテトを耕し、それを売り、自からの生活費(けっして儲かる仕事ではない)としている。

私が先般香港のデモ騒乱に行って200点もの写真とコメントをこのCatwalkサイトで展開したのもまったく同じことだ。あの現場に行って実際にこの肉眼で見たからこそ、百万の二次情報三次情報を越えたリアリティと事実を皆さんの前にお伝えすることが出来た。

そして今回の香港事象はたまたま他国事であり、日本における311の原発事故時の虚偽発表のように直接私たちの生活を左右するものではないが、おそらく今後この情報化社会において秘密保護法のもと事実を知らされぬがゆえに日本人が死線をさまようという局面もないとは決して言えない時代なのである。>(shinya talk    2015/01/29からの転載)

山と海とどちらが好き?

山と海とどちらが好きか聞かれたら、当然海と答えたい。

私は、島(佐渡)で生まれ、海の近く(千葉・稲毛)で幼少期を過ごしたので、空気中に一定程度の塩分が含まれていないと、精神錯乱を起こす(?)。

とは言っても、ここのところの蒸し暑さにはヘキヘキする。さらに、昨日外房の御宿に久しぶりに行き、御宿がこんなに湿度が高く、蒸し暑かったのかと驚き、海嫌いになりかけた。

昔夏に行った軽井沢の高原のさわやかさを思い出し、夏は海より山の方がいいな、と思ったりしている。(でも、写真でも見て、海(御宿)のよさを思い出そう)

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大学のゼミでの会話、私語

教室での私語というのは大人数の大教室で起こることが多く、少人数の教室や少人数のゼミでは起こることは少ない。

但し、少人数のゼミでも私語が多くて困ることがある。それは私語を許す教員に問題がある場合が多い。

ゼミで、講義者や発表者の発言にきちんと耳を傾け、それへの共感や反論や発展的な議論を展開する技法を身に付をけることは、将来の就職試験での集団面接や就職後の会議に役立つことを学生に伝え、その訓練を厳しくする必要がある。それを怠ると、ゼミでも私語は起こる。ーこれは正論であろう。しかし、それ以外に、学生の会話の特性にもよるような気がする。

学生達の集団での会話を聞いていると、お笑いタレントのバライエティ番組の会話のようである。学生の会話にはいろいろな突っ込みが入り、笑いに満ちている。

敬愛の1年生のゼミで、各自15分くらいの持ち時間で好きなことを話してもらったことがある。私の想定では、最初にスピーカーが10分程度まとまった話をして、その後5分程度の質疑が行われるものと考えた。

ところが、実際は、話し手の少しの発言に、突込みが入り、その受け答えで話しが盛り上がり、大変にぎやかな会話の場となるのが常であった。誰かの話を静かに聞くというのは、学生達にとってそんな居心地のよいものではなく、わいわい言いながら、人の話を聞くのが自然状態に近いのではないかと思った。

人の話を静かに聞き、それに質問や反論するという討論や会議のルールを身に付けさせる場が、大学のゼミであろう。しかし、その方法を強要すると、ゼミは発表者と教員とのやり取りだけで終わってしまい、不活発なものになることも多い。学生の会話の特性を生かした、ゼミができないものかと苦労する。