日本ではあまり知られていないが、実際現地に行ってみるととても美しく住みやすい街で、1年くらいの短期の滞在でも思い出に残るところがある。
私は20年ほど前に1年間家族で過ごしたWISCONSIN州の州都のマディソンという町は、人口20万人ほどで、そのうち大学関係者(学生も含む)が4万人近くいて、大学は湖の湖畔にあり風光明媚で、人々は親切で、一度そこで過ごした人は、マディソンを忘れられず、連帯感を感じ、日本人会を作ったりしている(http://madisonjapan.web.fc2.com/)
その日本人会のユースレターからの最近の便りを転載しておく。(知人の大倉さんの名前もみられる)
<WAAJ会員の皆様へ
今週の土曜日と日曜日に東京、名古屋、大阪でアメリカ大使館主催のEducation USAが開催されます。ウイスコンシン大学はブースをだしますので、みなさん、子供さんやお孫さんで留学を考えている方が見えましたら、告知お願いします。以下の担当者がブースで対応します。遊びに来てください。ボランティアも募集しています。
東京(9月10日)成田滋、谷本直、藤井将象、上野和俊
http://americaexpo.jp/
名古屋(9月11日)伊藤博文、上野和俊
https://americancenterjapan.com/event/201609114289/
大阪(9月11日)成田滋、大倉健太郎
https://americancenterjapan.com/event/201609114261/
福岡(9月17日)Elaine Egarashi (ブースはありません)
https://americancenterjapan.com/event/201609174301/>
投稿者: takeuchi
学校の部活動について
首都大学東京の西島央氏より、ご自身も一章原稿を書いている『運動部活動の理論と実践』(友添秀則編、大修館書店、2016年7月)を送っていただいた。
今、教員の多忙化軽減や「チームとしての学校」などとの関連で話題になっている部活
動の指導に関して網羅的に論じた本であり、部活動に関していろいろ考えさせられた。
西島さんには、『子どもと学校』(武内編、学文社、2010年)の中でも、部活動に関していい論稿を書いていただいたことがあり、この本の中でも、教育社会学の立場から、調査データにもとづき、示唆的な視点を提示している。
学校の部活動は「居場所として」(学童保育、趣味縁など)、「スポーツ・芸術活動を享受する社会的機会の平等化」などの機能を果たしているという。
部活動のこれからのあり方に関しても西島氏は具体的な提言をしているが、教育社会学の立場から、実践的な問題や政策的な課題に切り込むことの難しさも感じた。
西島央さんより、下記のコメントもいただいている.
<お送りしました本は、運動部に限られてはいますが、運動部活動に関して、さまざまな角度から学術的・実践的に論じた、初めての体系的な研究書だと思います。
編者の友添先生は、筑波のご出身で、専門はスポーツ倫理学で、早稲田のスポーツ科学部の学部長をお務めで、国のスポーツ政策や体育政策に関わる審議会などには、スポーツに関する文系の学者の第一人者として参加なさっています。
スポーツに関する研究は、筑波、早稲田、日体大、そして東大などで盛んに行われていますが、学校教育における部活動の実証研究をずっとしているのは私達の研究会くらいしかないのではないでしょうか。
部活動について問題を抱えているのは運動部だけではありません。文化部についても、とくに音楽系を中心に、運動部並みの活動をしているところや、反対に、指導者がいないところ、なぜか生徒会が文化部と並列になっているところなどもあり、きちんとした検証が必要だと思っています。
私は、首都大や東大などの講義で、定点観測的にほぼ同じレポート課題を出して、自分の関心のあるテーマについて、データを挙げて論じさせているのですが、部活動をテーマにとりあげる場合、去年までなら、ほとんどが部活と勉強の両立という生徒側の問題で、しかも、その多くが、部活肯定論でした。ところが、今年になって、大半が、教師の多忙化要因論で、部活に対して否定的な見解を示すものになりました。去年までの大学生の中高時代には問題がなく、今年の学生から問題が突然生じたはずもなく、まるで流感にかかったかのように一気に社会問題化し、それを鵜呑みにしている状況には、全体主義的な怖さを感じます。
実際には、むしろ2000年代初め頃までより、部活動の活動時間は短めになり、先生方をサポートするしくみもできてきていて、今指摘されている問題は改善されているというのが、長く研究をして現場に接していて感じている実感です。
そうであれば、社会問題となっていることは流感のようなもので、みんな問題視しているが、実際はこうだということを冷静にデータに基づいて指摘する必要があるとも思います。ご指摘の、教育社会学が実践や政策にどう関われるかは、教職課程から外されたことも含めて、学会を挙げて真剣に取り組まねばならない課題だと思います。
教育社会学の多くの方々、重要な教育問題に取り組んでいらっしゃいますが、文科省の政策や学校現場に活かされていないとしたら、(活かすという意味は、政策や実践を支えるだけでなく、批判することも含まれます) 学問の存立基盤の一部に関わる大問題だと思います。教育社会学のスタンスの取り方というのは、とても難しいものだと、痛感しています。>
子どもの散歩(外での刺激)
鬼の角は1本か2本か?
歳を取ると物忘れがひどくなる。少し前に置いたものが、どこに置いたか思い出せない。内容は思い浮かぶのだが、そのことがどの文献に書いてあったか思い出せない。以前にブログに書いたような気もするのだが、正確に思い出せない。大目にみていただくしかない。
これは友人の山本雄二氏がどこかに書いていたものだが、「鬼の角が1本なのか、2本なのかの熱くなっての論争がある。だが、そもそも鬼が存在するのかどうかは問われていない」という指摘をしていた。
とても鋭い指摘だと思う。またこれは社会学的考察の真骨頂であろう。
異性(女性)にたいする幻想
村上春樹の短編に、あこがれていた女性の現実の姿を、覗き見によって知ってしまった若い男性が、そのあこがれがなくなっていく様子を描いたものがある。(「野球場」『回転木馬のデット・ヒート』(講談社文庫、1988年)
仏文学者の多田道太郎が、名著『管理社会の影』₍日本ブリタニカ、1979年)の中で、次のように書いていて、感心して読んだことがある。
<恋愛についていえば、それはオリジナルの向こうに、オリジナルを超えて自分だけの夢をみることである。自分だけのコピーをつくることである。(中略)それはコピーの向こうに、コピーを超えて、自分だけの夢、自分だけの「オリジナル」を夢みることである。もし,ほんとうのオリジナルである女優が彼の前に現われれば、彼は「それは違う」といわざるをえまい。>(21ページ)
このように、あこがれや恋愛は、現実の異性(女性)を見ているのではなく、自分の夢(幻想)を、その異性(女性)を媒介にみているだけで、現実の異性(女性)が目の前に現れたら、「それは違う」といってしまうのであろう。
ここからどのような教訓(実践的課題)を引き出せばいいのあろうか。女性に、「永遠の嘘をついてくれ」(中島みゆき)と頼めばいいのであろうか。