地方で<生きる>若者たち

『教育社会学研究第102集』(2018年5月)の特集は「地方で<生きる>若者たち」で、いろいろなことを考えさせられた。/ 印象に残ったフレーズを転記しておきたい。///////////////// 2000年を越えたあたりから、地方の若者の不安定就労が指摘されるようになり(5頁)/ 地方の「ノンエリート」の若者たちが、資源の限られた「ローカルな社会的状況を「地元」のネットワークに/つながりを駆使しながら(17頁)///// 青森県では、学力および経済的に有利な立場にいる若者には大都市へと移動する誘因が存在するのに対して、相対的に不利な立場にいる若者にはそうした誘因は少なく、むしろ豊かでサポーティブな社会関係が出身地に留まる誘因になっている。(これは)大都市に移動する利益の小さい、資源の乏しい若者を地域に包摂し、移行における不確実性のリスクから保護する機能を果たしている。(33頁)。/ (青森の)若者たちは、「それなりに満足している」と考えるべきなのか、「絶望」していると考えるべきなのか。(48頁)///// 「地方の若者はいかなるリアリティを生きているのか」という観点から言えば、従来の分析は、若者自身が地域の構造的諸特性を解釈し、自分たちの職業生活や社会生活を意味づける側面を見逃している。(59頁) これらは、彼らが地域の社会構造との交渉を通じて自身の経験を意味づけるコンテキストを生産し、自らをローカルな主体に位置づける営みだった。(57頁)/ 世帯主である自身の賃金上昇ではなく世帯収入を自明視する語りは、現代的な生活戦略というより、この場所での生活展望の感覚を示している。(70頁)/// 村の有力者には逆らえない前近代的な権力構造、土地や資産の所有者と非所有者、古くから住みついている者と新しく来た者、年配者と年少者、男性と女性などの差異を序列化する伝統的な村社会。こうした地域社会では、近代の新参者である学校は、地域の承認と後ろ盾なしに無力である。*(109頁) (*児童74名、教師10名の命が奪われた大川小学校では、責任者の教頭が地区長に「山に上がらせてくれ」と魂願して、拒絶され、この悲劇を招いたというParryの解釈を載せている)/////////////////////////////////////////  私が学部生、院生の頃は、青年論の主流は農村青年や勤労青少年(学歴は中卒)であり、私たちの3年次の教育調査演習では、古河市の勤労青少年に面接調査をした。その後、高校進学率、大学進学率が上がり、青年論の中心は、高校生や大学生に移って行った。それで青年論の学校外の社会との関連といえばメディアが中心となって行って、地域社会との関係が薄れて行ったが、ある時期(2000年?)から、青年(若者)の就労に関心が向き、若者も地元に帰ったり、地元に留まったりして、地方に生きる若者に注目されるようになったのであろう。/ これには現代の少子化・人口減で、地方の人口が減り、何とか若者を地元に留めたいという行政の思惑も働いていることであろう。/  地方では共働きが当たり前ということや、地域の有力者の意見が学校に及んでいるという知見も興味深いと思った。都市部とはかなり違う。 敬愛大学のこども教育学学科の学生のほとんどが千葉県出身で千葉県の教員になりたいと大部分が考えていることも、この特集を読んで少しわかった感じがした。

学生の選んだ「ふるさと4番」

敬愛の学生に自分たちの作ったふるさとの4番を提示し、一番心に残ったものを1つ選んでもらった。その順位(票数)は以下。

1位(4票)
広き青き あの海 いつになっても 戻りたい 帰ると待っている 温かい人 心休まる あの場所
あの頃の景色は いつの間にか 消え去り 時代の波にのまれて 心の中 ふるさと

3位(2票)
いつになっても 忘れぬ いつでも帰れる ふるさと 心いやす あの思い出 いつまでも変わらぬ
増えています じじばば とても目立つ少子化 近所の活気は減っていくばかり 元気になれふるさと
いつも一緒にいた仲間 たくさん遊んで笑ったね 夢をみながら 頑張ったね 忘れがたき 思い出

6位(1票)
八日市場よいとこ ほどよい風が 気持ちいい カブトもクワガタもたくさんいる八日市場においでよ
成田空港で 出発 成田山で 観光 ただひたすら 楽しんで 今を忘れぬ ふるさと
私の市 市原 みなに聞かれる 市川? 千葉市民に見下され 残ったのは 田んぼだけ
満員電車 通学 駅から遠い 学校 長い坂道 帰りたい ふるさと
ひとり暮らし スマイル 鎖取れて 解放 自由に生きる私は 忘れない 田舎を
山も海もふるさと 手と手とつないで 口ずさむ 星が照らす ふるさと ここが私のふるさと
人や街並みは変わりゆく 色を添える花たち 涙もさけびも 聞き入る
この地のよさ気付かず 憧れ求めて都会へ ふとした時 思うは 郷の安らぎ 恋しき場は、ふるさと
スマホ使い 連絡 みな集まり 下向き 画面を見て 楽しいか? スマホ依存 ふるさと
ネット社会 拡散、個人情報 ばらまく 誰かに見つかり 騙される 怖い世界 ふるさと

親愛なる子供たちへ   水沼 文平        

最近、知人から下記のような詩を教えてもらいました。ご紹介します。

手紙 ~親愛なる子供たちへ~

年老いた私が ある日 今までの私と 違っていたとしても
どうかそのままの 私のことを 理解して欲しい
私が服の上に 食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを 教えたように 見守って欲しい

あなたと話す時 同じ話を何度も何度も 繰り返しても
その結末を どうかさえぎらずに うなずいて欲しい
あなたにせかまれて 繰り返し読んだ絵本の あたたかな結末は
いつも同じでも 私の心を 平和にしてくれた

悲しいことではないんだ 消えて去って行くように 見える私の心へと
励ましの まなざしを 向けてほしい

楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのを いやがることきには 思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたと お風呂に入った 懐かしい日のことを

悲しいことではないんだ 旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りを捧げて欲しい

いずれ歯も弱り 飲み込むことさえ 出来なくなるかも知れない
足も衰えて 立ち上がる事すら 出来なくなったなら
あなたが か弱い足で 立ち上がろうと 私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの 手を握らせて欲しい

私の姿を見て 悲しんだり 自分が無力だと 思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力が ないのを知るのは つらい事だけど
私を理解して支えてくれる心だけを 持っていて欲しい

きっとそれだけで それだけで 私には勇気が わいてくるのです
あなたの人生の始まりに 私がしっかりと 付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添って欲しい

あなたが生まれてくれたことで 私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変らぬ愛を 持って笑顔で答えたい
私の子供たちへ
愛する子供たちへ

【作詞】不詳、【訳詞】角 智織、【日本語補詞】樋口 了一、【作曲】樋口 了一

ネットで「 手紙〜親愛なる子供たちへ」を検索したら下記のような記事を見つけました。
「年老いた親の自分の子供へ向けたメッセージが歌われている。元の歌詞はポルトガル語で書かれており、作者不詳(読み人知らず)。樋口了一の友人、角智織の元に偶然届いたチェーンメールに詩が記載されていて、この詩に感銘を受けた角が詩を翻訳、樋口に見せたところ樋口も感銘を受けたため、曲の制作・発売に至った。」
「 手紙〜親愛なる子供たちへ〜」の原詩はポルトガルで平成21年に角智織が翻訳、樋口了一が作曲したもののようです。
ポルトガルは女性が歌う「ファド(運命・宿命の意)」という民族歌謡があります。多分この歌はファドではないでしょうか。ファドの旋律に乗せて、老いた母が自分の愛する子らに切々と語る言葉に母の愛情と愛着、生と死の持つ重さを感じます。やはりファドですね。
http://www.utagoekissa.com/tegamishinainarukodomotachihe.html

時代の風潮と若者の心情・行動

 時代の最先端は、若者の心情や行動に表れるのかもしれない。鋭敏な若者やエリートの若者の心情や行動に表れる。したがって、若者を対象にした大量のサンプリング調査から得られる平均像からは、その時代の最先端や未来は予測できない。
 そのようなことを、かって、社会学者の井上俊が言っていたように思う。
 突出した若者の行動の背後には、心情を同じくする多くの若者が存在する。突出した行動は氷山の一角で、その氷山の下には多くの氷が埋まっているという見方は、精神分析などの心理学もよくする。

 量的なアンケート調査ばかりやってきた私のような人間には、上の見方はにわかに賛同できないが、一理はあると思う。

 藤原新也は、最近の若者の暴走(21歳青年の交番襲撃事件、22歳の青年の新幹線で殺傷事件、新潟の23歳の青年能力幼女を電車線路内遺棄事件、若い夫婦の5歳の幼女を虐待死事件、26歳青年による障害者大量殺害事件など)は、「社会の末端に位置し、そのしわ寄せの歪みをもっとも受けやすい二十代の若者の溜め込んだフラストレーションの暴発」「“暴発せずに”この過剰な格差社会の中で悶々と日々を過ごしている大勢の若者が日常的に存在する」と考察している。

 四半世紀前のオウムの事件に関して、二人の優れた社会学者が、当時の若者の心情や行動とその時代的背景に関して、読み解いている。(朝日新聞 2018年7月8日朝刊より一部抜粋)

社会学者の宮台真司
 オウム真理教の事件は、今の首相官邸や国会、そして霞が関に見られる「エリート」の迷走の、出発点だったと言えるでしょう。 事件を起こした教団幹部の多くは学歴が高い「エリート」。彼らの多くは、上昇機運に包まれた高度経済成長期に生まれ育ちました。
 子どものころに抱いていた「輝かしさ」を経験できない不全感は何もオウムに集まった人たちだけの特徴ではありません。世代的に共有されていた。「自己啓発セミナー」の現場(には)、そうした感受性を共有した人たち、若い官僚や芸術家らが数多くいた。
 かつてと違って「努力して貧しさを克服する」といった社会の中での地位上昇によっては解決できない「実存」の問題を、どう解決するか。
95年ごろには既に上昇の輝かしさが遠のき、一言でいえば「こんなはずじゃなかった」という感覚が少なくとも「エリート」の中に充満していた。
 オウムは、社会的な地位達成で埋め合わせられない実存的な不全感を、宗教によって埋め合わせ、まじめな若者を引きつけた。単なる生きづらさを「ハルマゲドン」に象徴される「世界変革」で解消しようとした短絡にこそ特徴があります。
 出発点は、まじめな若者の生きづらさ。だからこそ危険なのです。
(宮台の)『終わりなき日常を生きろ』は、「そこそこ腐らず生きていくことを「まったり」という言葉で肯定しました。 
 事件の半年後に始まったテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に代表されるように、若者は自己イメージを維持するために繭にこもるようになる。
 ですが、「エリート」の迷走も「現実と虚構」の関係も実は変わっていません。 「エリート」のみならず、社会全体がオウム的になっているとすら言えます。

社会学者・大澤真幸  
 日本の戦後史は、理想の時代から虚構の時代へと変化してきた。理想の時代とは、社会全体に関してであれ、人生に関してであれ、何が理想の状態であるかのイメージが明確で(「平和と民主主義」「マイホーム」等)、コンセンサスがある段階である。理想の時代は1970年代初頭で終わる。理想のもつ説得力が失われ、理想が占めていた場所を、多くの私的な虚構(アニメ、ゲーム等)が占め、人々がそれらに耽溺(たんでき)する時代がやってきた。
 オウムは、虚構の時代が極限に来ていたことの指標である。理想の枯渇は耐え難い。オウムは虚構をそのまま理想とし、その実現を目指したのだ。オウム信者がアニメ的世界を生きているように見える。
 理想は一般に、何らかの未来の状態に対して建設的なものである。この建設的な側面をトータルに否定し、破局を導く無目的な破壊の力。その破壊が、偽善的な理想をことごとく拒絶する真に崇高な理想に見えるからだ。
 このトータルな破壊を組み込んだ妄想(虚構)が世界最終戦争(ハルマゲドン)であり、破壊力の源泉が最終解脱者の麻原彰晃である。彼らのテロは最終戦争の一環である。要するに「最終戦争を戦っていると思うとワクワクし生きている実感がする」ということだ。
 当時の知的な若者がどうしてこんな虚構=理想に惹(ひ)きつけられたのか。戦後日本は、普遍的な価値をもつ理想を構築し、我がものとすることに失敗したのだ。
敗戦の屈辱と経済成長の実感がある間は、理想が地に足を着けていない状態を意識せずに済んだ。しかしそれらが消えたとき、崇高な理想がどこにもない砂漠のような状況が出現する。これに対する過激な反応がオウムだった。
 あれから23年、困難は克服されたのか。そんなことはない。状況はより深刻だ。今日オウムのような集団が現れないのは、誰もが、近い将来ほんとうに破局が訪れ得ると知っているからだ。このまま行けば大丈夫、と思っている人はほとんどいない。
 現状のまま続ければ、日本は、地球は破局的結末の到来を避けられない。労働力不足による福祉制度の根底的崩壊か、極端な格差か、核戦争か、生態系の破壊か、具体像はわからないが、そのいずれかが起こるということは、現実的な予想の中にある。
 それなのに、私たちは、破局の回避という最小限の条件を満たす理想社会への道すら見出(みいだ)せない。
 

授業の記録(「教育原論」12回 2018年7月6日)

今日の授業も、お配りしたリアクション(コメント用紙)の流れで行います。
まず配布した2枚4頁の資料とテキスト該当箇所に目を通し、リアクションに答えられるものは答えてください。(しばらく時間を取る。要点を黒板に書く)

それでは、リアクションの質問の内容と資料の説明をします。
前の回のリアクションの答えの集計を資料に示しました。
ふるさとに愛着のある人は、多く、国家に関してはそれほどでもない、サッカーの応援は愛国心とあまり関係ないという答えが案外多いと思いました。
ワールドカップのサッカーで若い人が熱狂的に日本チームを応援しているのかと思いましたが、そのでもないことがわかりました。皆さんの中で日本チームの決勝戦(ベルギー戦)を実況(ライブ)で見た人はどれくらいいますか。若い人より中高年や老人がテレビで実況をみているように思います。
「ふるさとの4番」に関しては、他の人のものを読んで、1番いいと思うものを選んでください。私の感想は、そこに書きました。

ふるさとや国家を考える時に、コミュニティとアソシエーションの違いについて知っておくことは大切なので、その説明します。社会学辞典から該当箇所をコピーしましたので見てください。
アソシエーションはある目的の為につくられた機能集団です。たとえば、皆さんがサッカーをやるサークルを
作った場合、それはアソシエーションです。コミュニティは多くの機能を充たす生活共同体です。アソシエーションだったものが段々コミュニティになる場合もあります。サッカーのサークルが親睦会を頻繁に開き、メンバーの交友をめっざすようになるとコミュニティに近づきます。家庭や学校や大学はどちらでしょうか。
ふるさとや国家はどちらなのかと考えてほしいと思います。
またカントリーとネ―ションの違いということも考えてください。ふるさとはカントリーですが、国家はネーションで、この2つは、かなり違うものだということを、原発や戦争のことから考えてほしいと思います。
個人、家族、地域社会、国家が同心円状に伸びていくという集団観がありますが(教育基本法の考え方もこれに近い)、そんな単純なことではないことを、過去の日本の歴史や今のアラブ諸国の紛争をみていてもそれがわかります。
さらに、今日は学級(集団)について考えてみたいと思います。皆さんは、教員になると学級担任をすると思います。学級や学級担任に関するいろいろな質問がリアクションにあります。資料やテキストの該当箇所を読んで下さい。資料の中に東京都の教育委員会が学級担任に何を期待しているかということもあります。学級というのは、アソシエーションなのかコミュニティなのかということも考え、周囲とも話し合って、自分の考えを書いてください。

教育原論 リアクション(7月6日)  学級(集団)について考える
                     番号       氏名
1 前回のリアクションを読んでの感想
2 コミュニティーとアソシエ―ションの違いは何か
3 郷里を愛する気持ちと国家を愛する気持ちは同じか。(千葉に原発を作ると云う政府案があったらどう思うか。自分の子どもが海外の危険な地域に派遣されたらどう思うかなど)
4 いじめの起こりやすい学級(集団)の特質(雰囲気等)は、どのようなものか。
5 「教室コミュニケーション」(テキスト33〜34頁)とは何か。
6 自分の属した学級で印象に残っていることを教えて下さい。
7 学級で教師のどのようなリーダシップや教え方が、学力が向上し、児童の満足度も高まると思うか (配布資料<武内原稿・リーダシップ論参照のこと)
8 小学校で学級担任になったら、どのような学級にしたいですか(資料も参照)
7 他の人からコメントをもらう
 (         )→