少子高齢化社会 -老人の日々

高齢者人口が増加の一途をたどり、高齢者(老人)は、毎日何をして過ごしているのであろうか。
ニューレジャークラスが出現し、レジャーが盛んになっている気がする。ただし、高齢者にもお金持ちもいれば、そうでない人もいる。老人のレジャーにも格差が生じているのであろう。
私の住んでいる地区(千葉市の稲毛区宮野木)は、周りに高齢者が多く、老人が多く住んでいる地区のような気がする。私の入っている「卓球愛好会」も老人が多く、平均年齢は60歳を超えている。今日は、その小学校の校庭ではゲートボールの大会が開かれ、多くの老人が集まっていた。2日ほど前の平日に開かれたこの地区のゴルフのコンペには多くの人が参加したと近所の人に聞いた。
以前にも書いたが、近くの整形外科に行くと、老人ばかりで、スタッフは若い人で、さながら老人ホームだと感じた。また、スポーツクラブも、お客は老人、スタッフは若者で、同じような感じである。
家の近くの、自然食品の店(ふれい広場)という看板の店に、女性の老人がよく集まっている。1日に何回かセミナーのようなものがあり、それに参加すると何か景品のようなものがもらえるようで、人が溢れている。何か余計なものを買わされなければいいが、と心配になる(先日、その店に来た老人が倒れたらしく、救急車が横付けになっていた。) 
平日の、スーパーの中にあるゲームセンターには、母親と幼い子どもだけでなく、老人がかなりいることに気がついた。ゲームセンターにまで、老人が進出している。
これから少子高齢化で、日本はどのようになっていくのであろうか。

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追記
 NHKスペシャル「いのち 瀬戸内寂聴」(再放送 25日水 0時10分~)を見ると、91歳という齢でも、いろいろなことができることがわかる。

 水沼文平さんより、下記のコメントをいただいた。深く御礼申しあげる。 掲載をお許しいただきたい。

先生のブログ「少子高齢化 老人の日々」を読んで「老人とは何か」「老人とはどうあるべきか」を考えました。
駅の改札口で小旗を持った人を囲んでいる年寄のグループをよく見かけます。どこか徒歩旅行に出かけるのでしょう。大きな公園で写真家の指導で小さい植物を撮っている年寄グループを見たこともあります。定年退職後にグループで趣味やスポーツに興じるのは健康的にも精神的にもいいことだと思います。そのうち私も仲間に入れてもらいたいと思っています。
さて、テーマに戻ります。近所に小さい公園があります。そこにはベンチが5つほどあります。昨年の春くらいから同じベンチに同じ老人が座っているのを見かけるようになりました。何もしないでぼーとしているように見えます。ある時、ベンチの半分が空いていたので私はその老人の隣に座りました。「近所にお住まいですか」と問われ会話が始まり、その人は83才、近くのマンションに娘さんと二人で住んでいることを知りました。「いつも何をなさっているのですか」と私が尋ねたら「回想しているのです」という思わぬ返事が返ってきました。ちょっと驚きましたが、後になって「回想する」ということは老人だけに許される行為(特権)だと気づきました。
私が生きてきた69年と5ヶ月は「回想する」に足る十分な年月だと思います。仏教が定義する「遊行期」は人生を回想する期間、回想とは自分の人生を遡行し母親の胎内に戻るプロセス、つまり死によって宇宙という胎内に回帰するプロセスかも知れないと思いました。
私は水泳を趣味としていますが、先生のように卓球やテニスなどにも挑戦したいと思う一方、ベンチの老人のように回想する時間をたっぷりと持ちたいと考えています。
私の記憶の最初を飾るものは、4歳の頃でしょうか、母親はゆったりとしたスカートをはいていて、道で人に出会うとこのスカートにすっぽりと隠れてしまう自分の小さな姿です。こんなナーバスな子どもと現在の私を比べることができるでしょうか。(これを聞いて人は笑ってしまうことでしょう)その変化や落差に自分の人生を「回想する」意義があるのではないでしょうか。
近くの小さな公園の欅や桜はすっかり葉を落とし、人の姿もまばらになりました。最近そのお年寄りの姿が見えないのが気になっています。(水沼文平)