最近の東北の様子

知り合いのK先生が、最近東北を車で回られ、その様子を私的な「便り」に書かれている。その一部を、許可を得て、掲載する。

< 8月31日から3日間、福島~宮城~岩手と東北の被災地を巡る旅をしてきました。
1日目は東京を出発して一路福島を目指し、南側で立ち入れる福島第一原発に一番近い富岡町を訪ねる。2日目は、太平洋に沿って、福島県の相馬市から、宮城県の名取市、仙台市、塩竃市、石巻市を経て女川市へ。さらに、東北電力女川原発のPR館を訪ね、南三陸町まで足を伸ば(す)。3日目は、気仙沼を通って、陸前高田市へ。さらに35㎞ほど北上して、三陸町吉浜地区を訪ねました。>
<現地へ行ってみて初めてはっきりわかたのですが、避難区域=立ち入り禁止区域ではないのです。ちょっと冷静に考えたり、報道を見聞きしていれば分かることなのですが、現地へ自分の足で出かけてみることの大切さが、こんなところにもありました。福島第一原発を中心に北西方向へ広がる「帰還困難区域」は、立ち入りには許可が必要で、我々一般の者は入ることはできません。しかし、その外側の「居住制限区域」や「避難指示解除準備区域」は、日中のみは一般の人も立ち入ることができるのです。今回訪ねた富岡町は、ニュースでもよく出てくる双葉町や大熊町のすぐ南隣の町で、福島第1原発からは直線で5㎞くらいの距離でした。実は、こんなに近くまで行くことができるのです.>
< その富岡町で車を降り、町を少し歩いてみました。ひとことで言うと、まさに町はゴーストタウンです。あたり一帯、もちろん誰一人姿を見ることはできません。3年半前の状態がそのまま止まった町がそこにあるのです。町角の信号機は平常に動作しており、規則正しく赤青と変わるのですが、それを見る人も、そこを通る車もまったくありません。地震で傾いた家屋、立ち入り禁止のロープの張られた民家、家の中には捨て置かれたままの家具がいっぱい見えます。JRの富岡駅は津波の被害を受けており、これまたやはり、3年半前のままの姿がそこにありました。プラットホームの屋根から下がった広告看板はへし曲げられたままで、そこからも駅を襲った津波の高さが推測されました。
 それにしても、福島の富岡町、百聞は一見に如かずということをつくづく感じさせられました。原発事故の悲惨さが、物言わぬ町を通してひしひしと伝わってきます。放射能の被害は、目には見えないのです。町がそこにあっても、目に見えない放射能は確実にそこにあるのです。だから人々はみんな避難し、3年半を経た今でもそこに見える我が町へ、そこに建つ我が家へ、帰ることができないのです。原発事故の恐ろしさは計りしれないものであることが、強く実感されました。>
<ある意味第三者でしかない自分にとって、この被災についてどれだけ語れるかは自信がありません。しかし大事なことは、 現地を訪ねてみること、 問題をしっかり深く考えてみること、他者への思いを可能な限り馳せること、自分自身の問題に置きかえてみることなどでしょうか。>

別の知り合いOさんからも、東北の様子のお知らせを、いただいている。

先だって、福島に視察に福島大学の先生方の案内で行ってまいりました。
原発のそばは相変わらず、放射能の濃度が高く、車内にいても6mmシーベルト以上という地域がありました。もちろん、そこは帰還困難地域でした。しかし、近隣の帰還可能地域の方が生活は「荒れて」いるようです。ましては、いったんその場から避難し、再び原発周辺の地域に戻ってきた後の生活は決してこれまで通りではないとのこと。復興のために、費やされる支給費用や生活費の使い方にも問題ありそうです。原発によっていったん壊れた地域の復興は、口でいうほど生やさしいものではなさそうです。