未知の体験

大学教師たるもの、本ばかり読んでいて、自分で実体験はあまりしない。口先で言うばかりで、実際にやろうとはしない。現場に出かけ、観察することはあっても、自分が当事者になり、実践することはしない。このような傾向は、自分にも十分当てはまる。

高名な心理学者が、「人は2つ以上の職業を経験した方がいい」と講演していて、「その通り」と思ったが、実行したことがない。
大学生時代、入っていたサークルが大学祭で、「歌声喫茶」というものをやり、私はウエイターをやり、とても楽しかったことを覚えている(自分に向いているとも感じた)。しかしその後、そのような仕事もアルバイトをしたことも一度もない(今更、この歳で、そのようなこともできない。というよりは、ウエイターとして雇ってはもらえない)。

知り合いのKさんから、メールが来て、いま北海道の農場で、酪農体験中という。

・8日(火)から8日間、帯広から南へ1時間ほどのところの農場で、酪農体験中です。滞在先の農場は、牛300頭ほどを飼育し、農地100ヘクタールを所有しています。親子二世代の夫婦と、3人の従業員がいて、かなり機械化・合理化の進んだ、比較的大規模な経営形態の農家です。朝4時半に起きて、朝と夕方に牛の搾乳、その他いろいろな作業を手伝っています。搾乳作業は、ロータリー・パーラーという機械に牛が20頭順番に乗せられて回転し、12~15分で一周する間に自動的に搾乳されます。2時間半ほど、糞尿と泥のある中、搾乳器をひたすら牛の乳房(にゅうぼう)につけ続けます。
大自然の中でのんびり牛と、などというイメージとはかなり違います。汚さと臭いはかなりのもの、どこに行っても、牛の糞尿の臭いと、発酵させた牧草(保存と栄養化のため発酵)の臭いは強烈です。
・農業体験は一度はやってみたい経験、「やってみたい」と「やってみた」の階梯の差は大きいのだという精神で、チャレンジしてみました。
・これを機会に、TPPをはじめ7~8冊農業関係の本を読み、それもとても興味深かったです。農林水産業のGDPに占める比率はわずか1.5%に過ぎませんが、その果たす役割や意義を考えると、とてもとても大きな意味を持つものであることは、すぐわかります。食料安全保障の問題、食の安全の問題、農業と自然との関わりなど、大切な問題はいくらでもあります。飼料用穀物は、95%が輸入されています(酪農製品は国産ではない)。飼料用穀物の輸入は、大量の窒素やカリを、日本の農地に蓄積し続けます(理論的には、糞尿の輸出が必要だそうです)。遺伝子組み替え作物の危険も深刻です(解明されていない危険がいろいろあります)。
・TPPに関しても、さまざまな見方や意見はあると思いますが、戦後の日米関係を振り返って考えてみれば、アメリカの農業を通した世界支配、あるいはまた巨大アグリビジネスの利潤追求という側面は否定できません。日本の酪農業が、アメリカの農業生産体系にいかに深く組み込まれているかが、よくわかります。 そんなことこんなことを、少しばかり体験中、実感中です。

このように、自分のこれまでの仕事はまったく関係のない分野に飛び込んでいくKさんの勇気と行動力に脱帽。

挨拶について

道や外で会う(行きちがう)人は、挨拶し合うのであろうか。もちろん人の多い都会では、見知らない人に挨拶することはないが、都会ではない町や村、あるいは観光地ではどうであろうか? 
観光地では、人はリラックスしているので、見知らぬ人でも挨拶を交わすような気がする。湘南の海岸で散歩する人は、お互いに挨拶はしない、千葉の「田舎」では半分くらいの人が挨拶をする。以前にそのようなことを、書いたことがある。
大学ではどうであろうか。以前に勤めていた上智大学(千代田区)では、学生から学外はもちろん学内でも、挨拶されることはほとんどなかった(ゼミの学生でも、教室外で知らん顔されたことがある。それだけ都会化している)。今勤めている「敬愛大学」(千葉市稲毛区にある)の学生から、ゼミの学生以外でもよく挨拶される(「小中高でそのようにしてきたの?」と聞くと、「そうです」という答えが返ってきた。「家の近くでも近所で知らない人に会ったら挨拶するの?」と聞いたら、「知らない人はいません。皆顔見知りです」という答えが返ってきた。)
アメリカ人が、エレベーターに乗り合わせたり、行き違う人に笑顔でよく挨拶するのは、フレンドリーであるのではなく、「私はあなたに危害を加える人間ではありませんよ」というメッセージを発している為、という解釈を読んだことがある(藤原新也『アメリカ』だったと思う)
今、日本の小学校では。「道で見知らぬ人と話をしないように」という指導がなされているという話を聞いたことがあるが、一方、「登下校の時に人に会ったら、挨拶をしなさい。変な人かどうかが見分けがつきます」という指導がなされている学校もあると聞いた。後者だとしたら、道で小学生に挨拶されて、礼儀正しいなと、喜んではいられない。不審者かどうか自分が試されたことになるのだから。挨拶も油断がならない。

皆さん、毎朝何時に起きているのでしょうか?
朝顔は、暗いうちから咲いています。今日も朝焼けがきれいでした。

防災教育のシンポを聞く

 今日(5日)は、公益財団法人・中央教育研究所主催・千葉県教育委員会後援のシンポジウム(「防災教育を考える」シンポジウム in 千葉)を聞きに行った。(http://www.chu-ken.jp/)。場所は千葉大学教育学部。地味なテーマで、参加費(資料代)が1000円かかるにも関わらず、100名近くの参加があり、盛況であった。私は、全く知らない分野なので、いろいろ学ぶことが多かった。
「学校における防災訓練がいかに重要かということ」、「災害時にはマニュアルは役立たず、トップ[校長]の瞬時の的確な判断がものを言うということ」「東京は建物の崩壊と火災の備えはしているが、津波の備えをしていないこと」「九十九里は平坦で高い建物も丘もなく、津波が来たら危ないこと,避難塔を早急に建てた方がいいこと」「地震はいつ来るかわからないので、いつ来ても大丈夫な備えをするべきこと」 など。
 ひとつ、疑問に思ったのは、災害時に、学校は、子どもを保護者に引き渡すことを、最優先にしているように感じた(千葉県のマニュアルでそれが強調されていた)。親もそれを強く望んでいるのかもしれないが、今回東北では、親に子どもを引き取らせた故に、命を落とした事例もかなりあったのではないか。保護者への引き渡しを第1優先にするのではなく、子どもの命を守る方策を一番に考えるべきだと感じた。学校(教師)が子どもを引き受け、そのことが子どもが命を落とす原因になったりしたりした場合、学校(教師)の責任が問われることになるが、それは仕方がない。教師になる人にはそれだけの責任と覚悟が必要なのだから。

詩オンチ?

人にはそれぞれ苦手なものがあると思う。センスがないといってもよい。私にもたくさんあるが、その一つが、詩がわからないということである。詩(音)痴といってもよい。それは、家庭教育や学校教育(国語教育)に問題があったのではないかと思っている。

藤原新也が、「詩人というのは失業者と同じようなものなので、応援のつもりで買ってほしい」とを書いていたので(http://www.fujiwarashinya.com/talk/)、ついアマゾンで、氏の推奨する詩集を1冊購入してしまった。
 伊藤友香『クロネコを撃ち殺したくなったら』(学びリンク、2013年)
   http://www.stepup-school.net/step/book/kuroneko/index.html

  読んでみると、思春期の悩みのようなものがうたわれているが、とてもシンプルで、詩オンチの私でも理解できるものがある。詩に添えられた
 北海道の通信制の芸術高校生の書いた挿絵も新鮮だ。
  うちの娘も共感すると思い見せたら、「自分の書く歌詞とは違う、ストレート過ぎる、暗すぎる」といわれた。やはり詩は難しい。
  いくつか、転載しておく。(これは、一つ一つが独立したもの。転載が 詩の著作権を侵してない、といいのだが)

  暑いものも嫌い 寒いものも嫌い 鈍いものも嫌い 痛いものも嫌い 嫌いなものをあげていったら 世界が消える  

  北極熊は思った ここは寒いな~ そして南に向かった そうしたら死んでしまった 

  赤信号 みんなで渡っても 轢かれるときは轢かれる

  勝手に入ってこないでよ ここは私のテリトリ―なのだから

  怒りが悲しみを越えると目が乾く

  捨てることもしない 欲しがりもしない 弱虫

 「私は悪くない」 と言い張りながら 自分が悪い事に気づき始めてた

  誰かが隣にいれば それでいい そういうことも あるだろう

  疲れたね そりゃあ そうさ 生きているんだもの

人間は優しい動物だ そう思える今日は いい日だね