森一郎先生のこと

都立日比谷高校時代の私の2年次の担任だった森一郎先生について、今日(10月27日)の朝日新聞夕刊に大きな記事で取り上げられ、思想家の内田樹氏も当時の思い出を語っているが、私の印象とは違っている部分があるので、そのことを記しておきたい。

私が森一郎先生から英語の授業を受けたのは1960年~63年なので、先生の書かれたベストセラー「試験に出る英単語」(1967年)が出版される数年前である。(内田氏は1966年日比谷高校入学とあるので私より6年後。「出る単」出版時には生徒だった)。森先生は、「試験に出る英単語」という日比谷高校の自由な校風に反したプラグマティックな授業を展開して教員間では孤立されていたのではないかと内田氏は書いているが、私の印象は違う。受験とは無縁の当時の日比谷の自由な校風にぴったりの先生という印象である。奈良県の女子高から転任された博学であるが繊細な文学肌の先生という印象である。確か、2年次の英語のサイドリーダーがシャーウッド・アンダーソンの「ワインズバーグ・オハイオ」(1919)で、これは「オハイオ州の架空の町ワインズバーグを舞台に住人の生活と内面を描いた連作短編集。ありふれた普通の人々が抱える鬱屈や悲哀、孤独や不遇に耐える姿を克明に描き出した味わい深い物語」という感想もWEBにあるが、高校生の私にはまったく訳の分からない文学的な短編集であった。その文学的な繊細さや訳の分からなさとその英語の授業の担当の森先生のイメージが重なっている。その文学的な表現の面白さを説明してくれたようだが、文学的な知識もセンスの全くない当時の私にはさっぱりよさがわからなかった。英作文でも文学的な多様な表現を教えていただいたように思う。

当時森先生が担任で、私が所属していた2年次の26ルームは、ラクビー部の連中が10人以上いたクラス(生徒が好きなクラスを選べた。ラクビー部の主将は後に外務大臣や文部大臣、衆議院議長を務めた故町村信孝氏)で、授業中も騒がしく、授業途中で立腹され出て行かれた温厚な英語の先生(池谷先生)もいたくらいだが、気の弱い森先生は担任の生徒たちを怒れず途方にくれていることがよくあった。このような昔のことを懐かしく思い出した。(以下新聞記事を一部転載。私の印象と一致している部分もある)

 都立日比谷高校の英語教師だった森一郎氏が執筆した『試験にでる英単語』(青春出版社、1967年、通称「でる単」ないし「しけ単」)は、画期的な一冊だった。この本は受験で勝敗のカギになる単語を選び、訳語は原則として重要性の高い1語に絞り、収録語数も見出し語にして1800語程度と、豆単の約半分に限定した「最少の時間で最大の効果をあげるための単語集。その登場は受験英語にコペルニクス的転回を及ぼしました」。/「でる単」は、一英語教師が手作業で1902(明治35)年以降の旧制・新制大学、旧制高校などの入試問題を約10年にわたって分析してまとめたもので、江利川名誉教授は、余人に不可能な「職人芸」と評した。/ 森一郎氏は23年、奈良県生まれ。奈良県内で英語教師を務めていたが、やがて日比谷高校に迎えられる。/森一郎氏は実は文学肌で、54年には詩集『ふるさと』、亡くなる前年の90年には句集『土蛙』をのこしている。/ 発行から半世紀を経てなお受験生を支え続ける「でる単」、そして森一郎氏の思い。犬撫(な)でて 未明旅立つ 受験の子――。『土蛙』所収の一句である。(小林伸行)/

 神戸女学院大学名誉教授・内田樹さん(71)–1966年に日比谷高校に入学して、1年のときに森一郎先生に英語を習いました。日比谷では異色の先生だったと思います。 当時の日比谷高校は、旧制の府立一中以来の伝統だったのでしょう、「発表授業」という生徒たちの自主性に任せる授業と、大学教養レベルの講義が併せて行われていました。大学受験のための授業というものを意識的にしている先生はいませんでした。それだけ先生たちが生徒の知性と判断力を高く見積もっていたのでしょう。 高1のときの英語のリーダーのテキストは、一つはジョージ・オーウェルの『動物農場』、一つはモームの『人間の絆』でした。それに比べて「試験にでる英単語」を体系的に教えるという森先生の授業は異彩を放っていました。 森先生のきっぱりと受験だけにフォーカスした授業はある意味ではすがすがしいほどプラグマティックでした。あるいは教員間では孤立されていたかもしれません。考えてみれば『試験にでる英単語』という書名自体が日比谷高校では非常に挑発的なものだったと思います。でも、生徒たちの間での評判は悪くありませんでした。森先生の授業は「大学受験に頻出する単語」の「最もよく用いられる語義」を覚えるというまことに非情緒的なものでした。(朝日新聞、2021年10月27日 夕刊より一部転載)