「失われた時を求めて」

長編の小説を、近頃の若い人は読むのであろうか。LINEやSNSで、短いフレーズばかりに接していると、長文を読むことはできないのではないか。自分たちの時代、もう半世紀以上も前になるが、本屋には、日本文学全集に並んで世界文学全集(翻訳)が並んでいたように思う。どれも分厚い本で、1冊読むのに1週間から1か月かかるような代物ばかりだった。その後それらの本を読む人はいなくなったのか、何年前、「世界文学全集」がブックオフで1冊100円で販売していた(思わず何冊か買ってしまった)。今はもう古本屋にもそれらは置かれていないのではないか。

そのような世界文学全集は高校生の頃に読むのが普通とされていたように思うが、遅く手の私は、読んだのは大学3年生の時である。最初たまたまトルストイの「アンナ・カレニ―ナ」を読んで、それ以来名作を読破しようと、トルストイの他の作品からロシア文学、そして「赤と黒」のようなフランス文学、「車輪の下」のようなドイツ文学、「風とともに去りぬ」「大地」「怒りのブドウ」のようなアメリカ文学、それと魯迅の中国文学など、手当たり次第に、長編小説を読んだ。(合わせて、日本文学も、井上靖、川端康成、谷崎潤一郎、大江健三郎、阿部公房、倉橋由美子、古井由吉など、こちらは図書館で借りて、一人の作家を飽きるまで読み、次の人にすすんだ)

このような乱読をしながら、長編で読むのを避けていた名作がいくつかあった。親戚の家の本棚にあった「チボー家の人々」や「カラマゾフの兄弟」、それに「失われれた時を求めて」など。とにかく何巻本かで長いし、難しいそうで、避けているうち、読まずに今日に至っている。

最初、私が専任講師として勤めたのは、武蔵大学人文学部である。そこは、私の所属の社会学科の他に、日本文化学科と欧米文化学科があり、東大を定年退官した有名教授が欧米文化学科にはたくさんいらした。その先生方と教授会が一緒で、月に2回、その先生方を見るだけで心が躍った。英文学の平井正穂教授、仏文学の「失われた時を求めて」を全訳した井上究一郎教授など、さすが一流学者とはこのような人なのかと、まじかで見て感激した。

今日の朝日新聞にプルーストの「失われた時を求めて」の記事があり、それを訳した井上究一郎教授の、いかにも学者らしい物静かなたたずまいを思い出した。