ジブリ映画(最新作)を見る

今日(5日)は、海浜地区の小学校での半日学校参観(敬愛大学、1年生)付き添いの後、時間が空いたので、海浜幕張駅前の映画館で、話題の映画「思い出のマーニー」(ジブリ・米林宏昌監督)を見た。
https://www.youtube.com/watch?v=lO79qkKDUNY(予告編)

平日の午後2時半からということもあったが、広い映画館に観客は私を含め9名。
米林監督の前回ジブリ作品「借り暮らしのアリエッティ」は好印象だったので期待したが、少し残念な感想。
 舞台となった北海道の浜辺(湿地帯)とそこに建つ西洋風のお屋敷は綺麗で、主人公のヒロインも知的で美しく、「少女のまなざしやしぐさから上品な色気が薫る」(朝日新聞、2014年7月25日)のは確かだが、ジブリの宮崎駿のこれまでの作品とは何かが違う.
 ただ、複雑な生育環境の中で傷ついた思春期の女の子の自分のルーツ探しの旅と、そこで出会う女の子同士の友情物語なので、思春期の女の子から見て「いい映画」だという感想が多いのであれば(ジブリの映画の好きなうちの娘に尋ねてみると、「風たちぬ」はつまらなかったけれど、この映画は映像もきれいでとてもよかった」という感想であった)、映画や芸術に疎い私が何も言うことはない.
 中年の男性の監督が、微妙な女性心理を描けるのかと疑問に思えるが、数々の名作を作ってきたジブリ工房には、多くの優れた女性スタッフもいて、複雑な女性心理を捉え表現する力量があるということなのかもしれない。
 
 それにしても、映画はあまり期待しないで、暇つぶしに見る程度がいいような気もする。これまで期待して見て「よかった」と思った映画は少ない。
 若い頃のことだが、銀座の並木座という古い映画の2本立てをやっている映画館で、「8月の濡れた砂」という一時話題になった日活の映画がやっていたのでひとりで見に行ったが(映画を見るときはいつもひとりだが)、その映画はさほど面白いとは思えず、もう一本付け足しでやっていた「仁義なき戦い」(1部)が圧倒的な迫力で魅了された。その映画のタイトルも知らず、期待していなかっただけに、満足感が高かった。(その後、「仁義なき戦い」のシリーズは皆見た。話題になり、テレビでも放映されるようになったが、お茶の間にはそぐわない映画であった)

夏の終わりの御宿

 夏は海水浴でにぎわった御宿(千葉外房)も、9月に入り、人も少なくなって、秋の気配。昨日(9月4日)は、ライフ・セーバーの訓練をする若い人(多分大学生)のグループが何組もあって、それなりの賑わい。( 写真はクリックして拡大)

御宿まで行き帰りの電車の中は、『回避性愛着障害―絆が希薄な人たち―』(岡田尊司、光文社新書、2013)と『ずーと彼女がいないあなたへ』(諸富祥彦、WAVE出版、2003)という、人との関係のうまくいかないことを扱った心理学の本を読んで行ったので、きれいな海で仲間と楽しくまた逞しく訓練する若者たちを見て、(心理的なことを)ぐじゃぐじゃ考えないで、スポーツ打ち込めば(波と戯れれば)、すべて解決すると思ってしまった。

秋の七草

秋の七草は 「ハギ(萩)、オミナエシ、キキョウ(桔梗)、クズ(葛)、オバナ(ススキ)、ナデシコ、フジバカマ(藤袴)」、
「一度に咲くのではなく、秋が深まりながら花開いていく七種の草花」。「秋の七草は山上憶良が書いた万葉集 <秋の野に、咲きたる花を、指(および)折り、かき数ふれば、七種(ななくさ)の花>」から始まった」とのこと。
(http://happamisaki.jp-o.net/flower/akinonanakusa.htm)
(http://blogs.yahoo.co.jp/yaoota1952/32479421.html)

実家の庭に、どこから飛んできた(?)萩が、大きくなっている。

住田正樹氏の著書

 友人の住田正樹氏(放送大学教授、前日本子ども社会学会会長)が、これまで書かれた論文の中から「子ども」に関するものを集めて、1冊の本を出版した。全9章と補論からなり、総ページ数317ページ。
『子ども社会学の現在―いじめ、問題行動・育児不安の構造』(九州大学出版社、2014年9月刊行)

私の本(『学生文化・生徒文化の社会学」2014年)とは、くらべものにならないほどの厚さと重厚さ。

住田氏は、大学院で私と同期に近く、一緒のゼミで学んだ。大学院終了後は、香川大学に勤務の後、長く九州大学教育学部に勤め、多くの研究者を育てた。「日本子ども社会学会」の創設にも関わり、同学会の理事、事務局長、会長を歴任し、同学会をリードしてきた。本書の題は、『子ども社会学の現在』とあるが、日本子ども社会学研究に、大きな影響を与える著作となるであろう。
 その住田氏も、今年で放送大学を定年で辞められるという。どのような定年後生活を送られるのか。
「(買った)本を少しずつ読みたいと思う」(あとがき)と謙虚に書かれているが、氏の研究・教育意欲は依然旺盛なので、また、大きな本を出されることでであろう。

 大学退職前の思いと、大学退職後の実際の生活は、違いが生ずることも多い。大学院の同期に近い多くの友人が、主に働いてきた大学で定年を迎え、それぞれの働き方(暮らし)をしている。

時流(権力)との関係

今日(3日)の朝ドラで、時流(=権力)に対する態度が、花子と蓮子で違い、二人の友情は破綻するようなストリーであった。

時の権力(=時流)に、どのような姿勢を貫くかは、個人だけでなく大学にも問われている。
政府の教育方針に、大学がどのような姿勢をしますのか。文部科学省の方針に従順に従うのか、それとも大学独自の道を行くのか(後者の場合、現代でも、競争資金はもらえず、補助金などを削減されるような憂き目に合うことはある。)
過去の例で、昭和1ケタの時代(昭和7~8年)に、カトリックの大学の上智大学の学生が、学校軍事教練で、靖国神社礼拝を拒否し、陸軍省が怒って、配属将校を引き揚げさせ、上智大学の「幹部候補生資格と在学年限短縮の二大恩典を剥奪する」という措置を講じようとした事件があった。
その様子は、詳細な資料とともに、『上智大学史資料集〈第3集〉1928~1948 (1985年)』に、記録が残されている。
それに対する評価は、「上智大学はこの事件で存亡の危機に瀕したが、結局、全面屈服と引き換えに危機を逃れた。学長以下全校謹慎したうえ、学長・神父・学生がこぞって靖国神社に参拝した」(高橋哲哉「靖国問題」ちくま新書2005年、P.132~133)などと、評されている。
しかし、資料集を読むと、少しニュアンスが違って読める。表面的には、時の権力(時流)に屈したように見えるが、そこには、学生を守り、大学を存続させようとした大学執行部の苦渋の選択の跡がみられる。(この事件が、その後の上智大学の、時流(権力)に対する姿勢にどのような影響を与えたのか興味深い。)

時流に屈したように見える花子が、今後どのようになるのか、見守りたい。