7月1日と2日の2日間に渡り、東京学芸大学を会場校にして、日本子ども社会学学会24回大会が開催された。
大会開催準備は大変だっと思うが、松田恵示副学長をはじめとして、腰越滋氏や金子真理子氏らの実行委員会の行き届いた配慮によって、快適なまた楽しい、充実した学会であった。印象に残ったことは下記。
1 若手の発表に精緻なデータ分析にもとづく発表がみられたこと。
2 中堅の発表に、子ども社会研究に関する水準の高い発表があり、その導きにより 学会の研究の向上が期待できること。(元森絵里子氏の発表など)
3 ラウンドテーブルが、さまざまテーマで活発に行われ、子ども社会学の研究の広がりと深化が期待できること。(馬居政幸氏の人口減少関連のものなど)
4 現役の指導教授が教え子の大学院生を率い参加、発表しているところには勢いがあり、その大切さも感じた。
5 公開シンポは、「子どもに民主主義を学べているのか」というテーマで、学会外から著名な研究者(広田照幸氏、浅野智彦氏、額賀美沙子氏)を招いての興味深い内容で、このようなものもいいものだと思った。
6 シニアの研究者の参加も、ほほえましく(?)、あたたかい学会員の視線を感じた。(原田彰先生、萩原元昭先生の発言が随所でみられた)
7 懇親会は、料理も美味しく,学芸大チアリーディング部の演技やプロの楽器ユニット227(http://227tamayuki.com/)の演奏などもあり、楽しいものであった。
多くの友人、知り合いとの久しぶりの再会、また新しい出会いもあり若い人の息遣いも感じて、いろいろ学んだ学会であった。
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授業の記録 教育原論 第11回(6月30日)
教育原論 第11回 リアクション(6月30日) 子ども文化・生徒文化について (テキスト 第7章5節 p101-102)
1 前回のリアクションを読んでの感想
2 子どもが大人や教師に反発を感じたり、反抗的になる時期は、一般的にいつですか。
3 あなたにそのような反抗期はありましたか。
1 あった 2 どちらともいえない 3 なかった
4 子どもが大人や教師に反発を感じたり、反抗的になる理由をあげなさい。
5 現代の大人と子どもの意識や価値観の違いは、どのようなところに現われていると思いますか。
6 高校生の生徒文化(行動様式)を、4つに分ける見方がありましたが(プリント1983年参照)、これは、現代にも通じるものがありますか。それとも全く別ですか。できれば、高校時代を思い出し、典型的な生徒像をイラストで描いてください。
7 現代の大学教師と学生との間には、どのような考え方や価値観の違いがあると思いますか。
チョウ(蝶) のつがいについて
うちの庭に遊びにくる猫(ジョバンニと勝手に名前を付けている)は、暇なのかよく、花に舞うチョウチョウを狙い、ジャンプして前足でキャッチしようとする。
残念ながら私は見ていなかったのだが、一昨日、娘が猫とチョウの攻防を目撃して、驚き報告してくれた。
つがいのクロアゲハが仲よく舞っていた時、その猫は地上高くジャンプして1匹のチョウを前足でキャッチし地上におりた。もうそのチョウはだめかと思った時、もう一匹のチョウが舞い降りてきて猫の周りを飛び、それに気を取られ、もう一匹のチョウを捕まえようとし、猫はキャッチした前足を離し。そのすきに(捕まっていた)チョウは飛び立ち、2匹とも無事だったという。
よく動物の母親が、子どもを守る為に、自分のみ身を危険にさらすという話や映像を見ることがあるが、チョウがつがいの為に自分の身を挺するという話は聞いたことがないように思う(実際、生物学の文献を調べれば、あるのかもしれないが)
このチョウのつがいの行動を人間に当てはめて考えると、いろいろなことが思い浮かび、複雑な気持ちになる。
追記 今日(7月4日)、ジョバンニ(猫)は、一匹のキアゲハを庭で捕まえていた。慌てて駆けつけ、チョウを助けてアジサイの花に乗せたが、羽がかなりやられていて、飛ぶことはできないかもしれない。一匹での行動は危険がいっぱい。
授業の記録(6月23日) 教育原論(第10回)
敬愛大学「教育原論」第10回(6月23日)の講義内容を記録にとどめておきたい。
テーマは「発達について」。受講者はこども教育学科1年生の半分で38名。その全員が出席で、出席を取っているとはいえ、全員が出席とは驚く。
テキストの参照箇所は、第3章の「子どもの発達から教育を考える」(藤埼春代氏執筆)。この章は、前半は心理学の立場から、ピアジェやガードナーやウ”イゴスキーの発達理論が精緻に説明されていて感心するが、1年生には難し過ぎるので、そこは今後の心理学の授業で学んでもらい、後半の「二次的ことば」や「教室ルール」といった教育(社会)学的なところを理解してもらい、さらに発達に関するプリントを配り、自分のことにも引き付けて考えてもらった。
乳幼児期は、「アタッチメント」と言われる「特定の人との間に形成される心理的な結びつき」(エリクソンのいう「基本的信頼」)が、大切なこと。これを欠いた子どもはその後の人間関係で苦労すること。そのような子どもに対しては、教師がそれを補う必要のあることを説明した。
青年期のアイデンティティー形成には、①自分の中に保たれる斉一(同一)性と、②それを他者が認めてくれることの2つが大切なこと。それには、青年期の通過儀礼(イニシエーション)も大きな役割をはたしていることを説明した。
リアクションは、下記。リアクションの5から8に関しては、周りの人と意見を交換してもらい、二人ずつ黒板に回答を書いてもらった。受講生の回答は、プリントから抜く出した抽象的なものが多く、身近な次元まで、あまり考えていないいことが感じられた。
教育原論 第11回 リアクション(6月23日) 発達について (テキスト 第3章 p26-35)
1 前回のリアクションを読んでの感想
2 「二次的ことば」(33ページ)、「教室ルール」(34ページ)と何か。
3 発達とは何か (配布プリントより理解できたところを書き出す)
4 乳幼児期に発達の上で、大事なことは何か(「こころの育ちと家族」プリント左側参照)
5 児童期の「発達課題」は何か(ハービガストの理論から現代の児童期を考えるー 小学生の時期にできるようにしておかなければならないことは何か)
6 青年期の「発達課題」1 - 高校生の時期までに、発達して、できるようにしておかなけれればならないことは何か。(周囲の人とも話し合う)
7 青年期の「発達課題」2 - 大学時代に、できるようにしておかなければならないこと(「発達課題」)は、何か。(周囲の人とも話し合う)
8 青年期にアイデンティティーを確立するためには、何をすればよいか。「アイデンティティーが確立する」とはどのような状態をいうか(「こころと家族」青年期の部分最後のところ参照)
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聴覚文化から視覚文化へ
粉川哲夫『都市の使い方』の中に、街を目隠して歩くと、いろいろな音が聞こえてきて聴覚が研ぎ澄まされるという記述があり、印象に残っている。同様に目の不自由な人は、健常者以上に、聴覚からさまざまなことを感じる能力に優れていることであろう。最近、アテネパラオリン大会のマラソンの金メダリスト高橋勇一氏より、「講演で学校の教室に入ると、目で見なくても、その教室の雰囲気が各教室で全く違うことを感じた」という話を聞いた。
上記は、聴覚文化がいかに大事かという話であるが、時代は逆に、聴覚文化から視覚文化の方に、あるいは複合文化の方に動いているように思う。
音楽でいうと、オーケストラ、独奏、独唱、合唱にしてもクラシックが段々人気がなくなりつつあるのも、聴覚優位のクラシックが今の時代に合わなくなっているのではないか。音楽のCDが売れないのも、同じ理由で、聴覚だけに訴える音楽はもう時代遅れなのかもしれない。クラシックも視覚に訴える工夫をする必要があるであろう。今の時代の音楽は、音だけでなく視覚重視で、ダンスや多彩な映像が混合した複合メディア満載で、テレビ。You Tubeを通して人々を楽しませているように思う。
そのようなことを、『感覚文化論』という本の書評を読んで感じた。 (以下朝日新聞6月25日朝刊より一部転載)
(書評)『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史』 渡辺裕〈著〉
『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史』
■聴覚より視覚優位へと認識転換
戦後のある時期まで、鉄道の案内の多くは聴覚を通してなされていた。車内では車掌が、駅のホームでは駅員が次の駅や乗り換えなどを肉声で放送し、客はそうした声に耳を傾けた。車掌の語りそのものが一種の職人芸と化すこともしばしばあった。だがある時期から車内やホームに電光掲示板が普及するようになり、放送は録音された短いものに変わるなど、視覚の占める比率が高まった。
本書を読むと、聴覚優位の文化は1964年の東京オリンピックの頃にはまだあったことがわかる。それをよく示すのが、開会式を中継したNHKのラジオとテレビの放送である。当時のテレビは白黒が主流で、ラジオを聴く人々の割合がいまよりも高かった。ラジオではアナウンサーが美文調のレトリカルな表現で人々を引きつけたばかりか、テレビの実況中継にすらラジオとよく似た特徴を認めることができた。
こうした聴覚優位の文化は、戦前から受け継がれたものであった。NHKラジオには、有名な合戦や野球の早慶戦をアナウンサーが実況する「架空実況放送」という番組まであったが、66年には終わっている。ラジオから白黒テレビへ、そしてカラーテレビへとメディアの主役が移り変わるなかで、聴覚優位から視覚優位へと感性文化のパラダイムが徐々に転換していったのである。< 評・原武史(放送大学教授・政治思想史)>
しかし、逆に今の時代、聴覚に特化した、聴覚を研ぎ澄ますことが求められているのかもしれない。
追記 西洋のクラシック音楽の限界に関しては、別の観点からであるが、次のような指摘も興味深い。
< アフリカやインドの音楽家に「西洋音楽はだめだ」と言われたことがありました。人を建物に閉じ込めて、太陽が落ちた時間から演奏を始めて、しかも2時間という枠まであって。自然の摂理を無視した環境で音楽をやることに何の意味があるのかと。《西洋音楽は、旋律や和声やリズムなどの枠組みで全ての音を律する。そうした「決まり」から飛び出した現代音楽は、いわば身内から異なる価値観を示し、権威に疑いの目を向け、世界との新たな対話の道を探るものだった》(■作曲家・一柳慧 朝日新聞 7月7日 朝刊)







