少し天邪鬼な見方

社会学は常識的な見方をするが、同時に世間の常識を疑うこともする。天邪鬼的なところがある。

日大のアメフット事件のテレビや新聞の報道を見ていると、ほぼ同じような見方ばかりで、それは常識(正論)なのだろうが、あまりに一つの見方の押し付けで、恐ろしくもなる。
QBを潰すことは、過去や他のチームでなされてこなかったのか(アメリカも含め、アメフットの試合を見てみる必要がある
https://www.youtube.com/watch?v=Z_AbNLwQXn8)
QBがボールを持っている前後に潰すプレイは反則ではないのか。

組織の中で個人の意見を正直に話すことはできるものなのであろうか。(このことに関して、以下に書く)

昔福島の原発事故の時、原子炉がメルトダウンしているのに、その時の政府(民主党)はそれを隠し、テレビで安全を強調していた(一方、事実を認識していた外国人は国外に脱出をはじめていた)。
後になって思ったのは、その時の政府(民主党)は国民に嘘をついてひどいなということである。同時に本当のことを言っていたら、日本国中が大変な混乱におちいったであろうとも思った。自分が政府の中枢にいたらどうしたであろうと考えてしまった。

昔NHKテレビで二人の知り合いが教育問題に関して対談しているのを聞いていて、立場の違いを感じた。
ひとりは教育社会学者の藤田英典氏で、もうひとりは文部大臣の町村信孝氏である。藤田氏の場合は学者なので自分の考えを自由に述べることができるが、町村氏は文部大臣という立場上、自分の考えだけを述べることができず、大臣という立場も考慮したぎりぎりのところで意見を述べていた。
緊迫したいい対談だったが、学者より大臣の方が大変だなと感じた。

ただこのことは、個人は組織の意向に沿って発言したり行動すればいいということを言っているわけではない。個人の発言や行動の自由というのは民主主義の基本でありそれは最優先されねばならないが、現実の社会の中での実行はかなり難しく、個人は自分の良心(信念)と組織の圧力のぎりぎりの攻防を強いられるということである。

絵について

美術(絵)についての教育は日本できちんとなされているのであろうか。
私自身は小さい時から絵は苦手で、小学生の時図工の時間に書いた絵を提出せずに家に持ち返った時もある(今でも心が痛む)。小中高ときちんとした美術教育を受けた覚えがない(美術の先生は教育者というより芸術家だったように思う。)
最近家人が、オーストラリアに行った折、アボリジニーの布に書いた絵を購入してきた。美術品というわけではないが、その土地の文化が何となく感じられ、絵の勉強はこのようなところから学んでいかなくてはならないのかもしれないと思った。
ネットで、アボリジナルアートについての解説を読む。

アボリジナルアート
大自然の中で狩猟・採集生活をしていたオーストラリア先住民が情報の記録や伝達のために使った絵画表現。彼等には「読む」・「書く」といった文字がないため、絵を描くことでコミュニケーションをとっていました。 もともと天然の粘土を使って砂絵として、身体の上にボディペインティングとして、または岩壁などに絵を描き生活手段として使われてきましたが、1971年にイギリス人の美術教師ジェフリー・バーデンの指導により、西洋のアクリル絵具とキャンバスによって描かれはじめたのが「アボリジナル・アート」の始まりとされています。
多くのドットとその集合により様々な世界を表現しています。元々動物や食用植物、水がどこにあるかを示すために幾何学的な模様を地面に描いて地図のように使っていました。その後キャンバスに描くようになってからこの点描画が誕生したそうです。
動物の骨格や内臓が透けて見えるように描かれます。これは動物の食べられる部位、食べてはいけない部位などを伝達するために用いられました。(https://www.webcreatorbox.com/inspiration/aboriginal-art

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追記  上記に関して、水沼さんより味わいのあるコメントをいただいた。掲載させていただく。

<アボリジニーが織った布に書いた絵の解説を拝見しました。
イギリスの作家、ブルース・チャトウィン(1940-1989)の「ソングライン」(英治出版) という本があります。
「ソングライン」はオーストラリア全土に迷路のようにのびる目にはみえない道のことです。文字を持たないアボリジニーの人々はその道々で出会った生活に必要なあらゆるものに名前をつけて歌にしながらオーストラリアという広大な世界を後世に伝えていったという内容の本です。
文字を持たなかったアイヌの口承文芸「ユーカラ」は節をつけ韻文で語られる長編叙事詩ですが、アボリジニーの口承生活百科「ソングライン」はそれに近いものだと思います。
4世紀後半に日本に漢字が伝わる前は、口語以外に絵や歌、身体表現が伝達手段として使われていたと思われます。文字の起源は紀元前4000年頃、西アジアで使われていた「絵文字」とされています。文字で歴史を綴ってきた文明国?と異なり、近現代まで文字を持たなかったアイヌ、アボリジニー、マオリ(ニュージーランド)などの伝達手段、生活、文化などを知ることは、文明国の人々が忘れてしまった「大切なこと」を思い出させてくれるかも知れません。
同様に文字を持っていなかった東北縄文人は赤ちゃんが死ぬと住居の側に瓶(子宮)に入れて埋葬しました。その瓶の中には瓶を割る小石が入っています。デイケアセンターのように女の子が老婆に肩を貸している絵が残っています。狩で手に入れた獲物(動物・魚)や採取した木の実は住民に平等に配分されました。
嘘つき、ルール無視、厚顔無恥、破廉恥、物金至上が罷り通っている現代日本ですが、アボリジニーの絵や音楽による万民のために役に立つ生活百科や東北縄文人が持っていた「命の大切さ(再生の願い)」「平等(正直に繋がる)」「弱者救済(優しさ・労わり)」などの理念や哲学を学んで欲しいものです。水沼文平>

形式より実質、動機より結果に責任を

教育の機会均等についての考え方は、形式的平等から実質的平等に移っている。つまり教育を受ける機会を形式的に平等にすればいいのではなく、実質的な結果が平等になっている必要がある。

 この考え方を、いろいろなところに当てはめればいいと思う。100%の移行は無理でも、少しでも形式より実質の方向に移すべきだと思う。
 
 犯罪などは動機が問われるが、それより結果の方に比重を移し、動機がどうあれ、結果により責任を持たせるようにすべきなのではないか。
 最近の政治や大学スポーツの世界の「言い争い」をみていると、動機(意図)がどうだったかが問題とされているが、動機(意図)に関しては当事者は誤魔化して言うし、当事者が意識しないこともあるので、そこで争っても埒があかないのではないか。
その点、結果に関してははっきりしている(「特定のところが認可された」、「傷害事件が起きた」など)ので、その結果に関して、責任を持つようにすればよいと思う。
リーダーたるもの,本人の動機はどうあれ、結果として生じたことに責任をとるべきであろう。(動機に関する「言い訳」を聞き飽きた)

カズオ・イシグロ『充たされざる者』(早川書房、2007)を読む

昔は、観た映画や読んだ本について、それらを既読(観)の人を探して感想を聞いたものだが、今はネットでコメントや感想を読むことができるので便利である。

カズオ・イシグロの「充たさざる者」(翻訳)は文庫で939頁の大作で、しかもストーリーや人間関係がよくわからず、なかなか読み進めず苦労したが、後半は一気に読め、よくわからないながらも面白かったなという感想をもった。
個人的には、老いてから奥さんを大事にしなくてはいけないなという教訓を得たが、本の主題はそのようなことにあるわけではなく、もっと文学的なところにあるのであろう。ネットに載っている解説や感想を読んで、いろいろ考えてみたい。

<カズオ・イシグロの「充たされざる者」を読み終えた。中盤あたりを読んでいるときは正直なところ苦痛でしょうがなかった。一体何の話をしているのだろう、いつになったら話が進むのだろう、そんな疑問を抱えたまま物語はあちこちへふらふらと漂っていた。中盤を越えたあたりからなんとなく本全体の様相が掴め「そうか、これはカフカの城だ」と思うと妙におもしろく感じてきて途端に読むペースが上がった。>

<900頁えの超大作。問題作、まさに「充たされざる者」 主人公も読者も「充たされざる者」200頁までは正直。たいくつだった。眠気との闘い…。それ以降は面白くなってきてよかった。>

<ストーリーは、ライダーがピアノの演奏をするためにある国のホテルにやってきたところから始まります。 ただ、時間の流れが一体どうなっているのか、地理的にもここは一体どうつながっているのか。今はそんなことをしている場合ではないのでは? 大作ですが、セリフを中心に話が進んでいくので次が気になり、とてもおもしろく読むことができました。 ただ深いです。人生はこのようなものかもしれません。>

<老ポーターのグスタフに頼まれて会いに行った女性ゾフィーと、少年のボリスは、記憶がよみがえってくると、ライダーの妻と息子らしい。街や建物や人々も、見覚えがあるものもあるが、時により記憶が定かではない場合もある。これはライダーの記憶が曖昧なせいか、それとも彼が疲れすぎていて、状況をきちんと整理できていないのか。ライダーは自分の予定を確認し、重要なものから片づけようとするが、次から次へと別の用件が入り、思うようにいかない。>

<時間・空間・人間の関係をすべて歪めて、夢の中にさまよいこんだような物語。目的地にたどり着けない焦燥・状況の細かなところが分からない不安感、現在の人間と過去の自分の重なり合い。同じような夢を繰り返し見る自分にもそんなカフカ的状況が切迫してきました。>

<時間軸がはっきりせず、夢の中のよう。急いでいるのに目的地へ辿り着けず、次々と湧いてくる頼まれごとや他人の人生に巻き込まれる。どの登場人物も心は何処か病んでいる。使命感はあるが、何も果たせない虚しさ。最後の晩餐ならぬ焼き立てのクロワッサン朝食を味わえた人生だったと思いたいが。人の一生ってこんなようなものかもしれない。>

<それにしても,こんな小説を,あの完璧な「日の名残り」の後に何くわぬ顔で発表しちゃうんですよ。カズオ・イシグロは黒い。素敵すぎる。やっぱり化け物だと思います。>

(https://bookmeter.com/books/472269)
(http://lfk.hatenablog.com/entry/2018/01/13/213838)
(https://www.kinokuniya.co.jp/c/20130505101506.html)

映画「かぐや姫」を観る

スタジオジブリの高畑勲監督の「かぐや姫」(2013年)をテレビで観た。
このようなアニメ映画を作るのに膨大な年月(8年)と人手それに費用(50億円)がかかっているという。
「日本の四季と豊かな自然の中で生き、時に荒々しく感情を爆発させ動き回る、かぐや姫を生身の人間として描いた物語であり、心に刺さるリアルな物語でもあった。ざっくりした描線で描かれたキャラクターと水彩で描かれた美術が美しく融合する。個人作家が用いる手描き線を生かす表現は、長編アニメーションでは困難を極めるが、高畑監督はこの表現にこだわり抜き、日本のアニメーション界の素晴らしい画家たちの力を結集し実現させた」という評がネットで紹介されているが(https://ja.wikipedia.org/wiki/)、その通りなのであろう。
ただ、登場人物がかぐや姫を含めあまり魅力的な人がいないのが、残念であった。
これは高畑監督の女性観や人生観なのであろうか。
描かれたかぐや姫は幼い頃は活発で自由奔放であり、成長して知的な美少女になるが、周囲の意向に合わせる控えめな日本女性になり、魅力的でなくなってしまう(ように思う)。
これは、昔の日本の男の描く理想的女性像としては当てはまるかもしれないが、時代錯誤を感じる。
高畑勲監督はこの映画で何を描きたかったのであろうか(「姫の罪と罰」?)