教育社会学の目指すもの

学校の授業の時間や活動と授業以外のそれ(時間や活動)との関係をどのように考えればいいのであろうか。授業は、①教材、②教師、③教室、④児童・生徒といった学校教育を構成する主要な4要素が皆入った場で行われることなので、学校教育の中核で一番重要な場であることは間違いない。したがって教育学の研究で、授業研究、教科教育が主流を占めることに異論はない。ただ、「授業研究、教科研究の視点をもたない教育学の研究は意味がない」とまで言われると、それは違うと言わざるを得ない。

内にいては見えず、外からなら見えることがある。中にいては囚われて自由な発想ができないことが、外からは自由に考えることができることがある。また、「潜在的カリキュラム」という言葉を持ち出すまでもなく、児童・生徒が学校で学ぶことは、教師が教え導く授業の場だけでなく、学校生活全体からや教師が意図しないことからも学ぶことが多い。小中高大と長い学校生活の何から学んだんだろうと考えてみても、授業や講義から学んだという思いや意識は少ないのではないか。授業や講義には関係しているかもしれないが、自分で興味をもって調べたり本を読んだりして心に残っていることの方がはるかに大きいように思う。

教育学の中でも後発の教育社会学は、教育学が授業(教授、教科)を中心に研究していたのに対して、その外側の環境(地域、階層、文化等)に目を向けて、それとの関係で学校の教育を考えてきた。それで教育学の研究が主観やイデオロギーを離れて客観性を増し飛躍的にすすんだ。ただ教育社会学もその研究の視点を段々外から中に向けている。戦後初期に教育社会学研究を発展させた清水義弘先生は、教育社会学は学校というお城の外堀(地域や階層)を埋め、最後に目指すものは天守閣(カリキュラム)だといういい方をされていた。

小林雅之氏の最終講義の案内

私が大学の助手就任1年目に、駒場より教育社会学コースに進学してきた学部3年生は数人いた。そのうち3名(故渡部真、近藤博之、小林雅之の各氏)は教育社会学の分野で研究者になっている。そのうちの小林氏がこの3月に勤め先(東京大学大学総合教育研究センター)の定年(65歳)を迎え、最終講義を行うという。最終講義は当日参加も可能という話を聞いたので、下記に案内を掲載しておく。

小林雅之教授最終講義 

日時:2019年3月9日(土) 16:00~17:30/  場所:東京大学本郷キャンパス 赤門総合研究棟A200)/http://www.u-tokyo.ac.jp/campusmap/cam01_08_02_j.html / (問い合わせ先 daikei3@p.u-tokyo.ac.jp

追記 これまで、いくつかの最終講義を聞かせてもらったが、それぞれの大学と研究者の特質がよく出るものだと思う。小林雅之氏の最終講義は120名余の聴衆がいて、東大の大学総合教育研究センターの教育政策の大学院の卒業生が多かったように思う。また研究者では、市川昭午、天野郁夫、矢野貴和、金子元久という高等教育研究の重鎮の顔も見られた。講義内容は、東大の教育社会学研究室の正統を引く継いだもので、中身の濃いものであった。言い換えると学問的でかつ政策提言的な内容であった。東大の特質として、その学問的研究は文部科学省の政策に影響を与えながらも、それとは一歩距離を取っている。その特質が奨学金政策の研究にもよく表れていた。今後の研究の発展も祈りたい。

逸脱行動の原因・動機について

犯罪的ない反道徳的行為が行われたとき、その原因(・動機)を個人に求めるのか、あるいは周囲の社会環境(状況、制度)に求めるのか難しい。その両方に求めるのが正しいのであろうが、その程度は、学問分野や論じる人によって違ってくる。教育学や心理学は個人の意識に原因を求め、社会学は社会環境に原因を求める傾向があるのだろう。マスコミは「そんな酷いことをする人がいるのだ」という驚きを前面に出し、社会的原因の方は付け足し程度にすることが多いような気がする。

最近、飲食のチエーン店で働くアルバイトの店員が、食品の衛生に抵触するような動画をネットで流す行為が問題になっている。それに対しては、そのようなことをする個人の資質を問題にする見方(特に報道)がほとんどで、社会的要因の方を問題にする論調はあまりないように思う。                                  藤原新也は、社会的環境(労働環境)の方に重きを置いた見方をしている。(下記shinya talkより一部転載)

<そこに動機があるとすればそれはおそらく彼らが携わる労働の虚しさと、虚しい労働に日々勤しまねばならない自虐ではないか。今回不適切動画の現場になったのは、いずれもそこに共通するのはチエーン店であるということだ。チエーン店と聞けば各店舗共通の細密なマニュアルがあり、そのマニュアル通りに人間が動かなければならない人間のロボット化が必須条件となる。またもうひとつそれはそこに人間関係が見えない。それは集団生活に必要な人間の絆やトラストや情の関係が築かれていない虚無的集団であると言える。加えて昨今の世の中の労働環境の劣悪さがこの虚しさに追い打ちをかける。そこではおそらく虚無的労働を低賃金で働かざるを得ない現代の典型的な貧困青少年のクラスター(房)が存在し、そのクライアントをあざ笑うような跳ね上がり分子の投稿動画を見て互いに傷を舐め合うように面白がる自閉集団が目に見えるようだ。>(shinya talk ;www.fujiwarashinya.com/talk/

チエーン店で働く若者で、このような動画を投稿するものはほんの一握りであろうし、それに共感するものがどの程度いるのかわからない。実証的データ(エビデンス)が是非ほしい。                                   藤原の見方は社会的要因だけでなく個人的心理にも言及している。別の現象であるが、若者の働き過ぎを、「自己実現系ワーカホリック」という見方で分析した教育社会学の本田由紀のもの(『軋む社会』双風舎、2008,p87)は、社会的要因と個人的要因を絡めて考察したもので、このような分析ができないものかと思う。

最近の教育事情-「内外教育(ひとこと)」から読む

主に教育現場の先生や教育委員会の人が読む情報誌(毎週2回発行)に、内外教育(時事通信社発行)がある。そこでどのようなことが今論じられているのを知りたくて、過去2年分くらいを拾い読みした。文部部科学省の各種委員会の報告、各都道府県教育委員会の動向、教育関係の調査データの紹介、外国の教育事情、教育関係の学会やシンポの報告、教科書の採択状況、教育関係の雑誌記事の紹介など、教育関係の政策から実践まで幅広く、事実に基づく記事が多く、参考になる。その情報誌の最初には、教育関係者の800字ほどのコラム(「ひとこと」)があり、文部科学省関係、マスコミ関係、大学役職者に混じって、知り合いの教育研究者が書いている(教育社会学専攻の人が多い)。その論から、最近の教育事情が窺い知れる。そのいくつかを抜き出してみよう(後に、元のものをコピーする)

〇「子どもたちは、直に恐竜の化石に接して、「おや、なぜ、すごい」を連発している。ここには何物にもとらわれない開かれたしなやかな感性がある。体験という学びの原点をそこにみた」(児邦邦宏「学びの原点」)

〇「私は学生に『1つのことを深く学んだら、そこから多様なものに拡大し別のことに応用したりすることができる』と言っている。ところが、どうやら最近の教員養成をめぐる議論は、真逆の方向に向かっているらしい。(それは)『人は教えたことだけしか学ばない』という決めつけである」(広田照幸「教員養成像の貧困」2017.6.6)

〇「高い目標が少数だけ簡潔に掲げてあるのであれば、それに向けて少しでも近づくための努力を教師はやれるかもしれない. 高くて広くて細かい目標は、教師を追いつめるだけ」(広田照幸「こんなの無理」2018.2.27)

〇「今回の学習指導要領は、学力の中核に『学びに向かう力・人間性』を据えた。その志を具体的にどのように実現するのか。それは、学校現場を担う先生方の双肩に懸かっている」(志水宏吉「新しい学習指導要領に寄せて」)

〇「学びにおいて個人作業は協同化されることによって最大の効果を発揮することができる。学びにおいては、いついかなるときも子どもを孤立させてはならない」(佐藤学「自力解決という異様な光景」2016.11.1)

〇「情報が氾濫している中で、それを選択する力はまさにこれからの社会を生きる力。無視する力は高度情報化社会においては生きる力の中核ともいえるであろう」(新井郁男「新しい時代の教育―善く生きる力」)

〇「教育において求められるエビデンスとは、目の前の授業が、その社会で求められる『教育的な営み』となっているかどうか、そしてそれが可能になる条件は何かに関する詳細な分析だ」(酒井朗「スモールデータの重要性」2018.10.19)

〇「大事なのは、一部の問題を、私たちみんなで考えていくという姿勢ではなかったのか」(内田良「ブラックは一部!の罪」2018.8.10)

〇「基礎は学校で学ぶ機会が公平にあるが、それ以外となると家庭で教育にかけたお金と時間の差が響く。しんどい環境の子どものハンディキャップを改善する役割を果たさねばならないのは、小中高の学校教育である」(氏岡真弓「思考力問う改革と格差」2018.1.30)

〇「社会は確実に分断されてきている。 多様な背景を持った人々が相互に理解し合い、共生していくためにはどうすればいいのか」(酒井朗「はじめて知りました」2017.12.15)

〇「日本社会は、業績主義の中で、失敗がもたらす絶望を緩和する文化的仕組みを組み備えた優しい社会だ。今回は運がなかった、チャンスに恵まれなかっただけだ、と自分を傷つけずにすむ思考様式に恵まれている」(耳塚寛明「運やチャンスと言える社会」)

〇「教育行政は国民のために行われるべきものであって、与党の政治家のためのものではない。政治と行政との間には距離や緊張感が必要だ」(広田照幸「しっかりしてくれ、文科省!」2018)

友人のU氏より下記のコメントをいただいた。

<各先生方のこれまでの論調を思いうかべながら興味深く拝見しました。ただ、どの論考にも、学校現場の授業が教科の縛り(依存)のなかで展開されることへのリアリティーを見出せない、というのが率直な感想です。言い換えれば、学習指導要領の総則の世界と学校の現場とのズレを前提に論じる視点を確認できません。その意味で、広田先生の「無責任な官僚と『有識者』の産物」という認識に半ば同意しますが・・・・他方で、指導要領の総則の冒頭には「児童の心身の発達の段階や特性および学校や地域の実態を十分考慮して」とあることとの矛盾にまで進まないことに、違和感(理解不足・考察の浅さ)を感じました。さらに現場の教師の教師が必要なのは学習指導要領ではなく教科単位の教科書とのリアリティーが生む学校教育の”ゆがみ”と重ねるフィクションとしての学習指導要領の大層な言語空間の機能を揶揄する知的遊戯にまで深めてほしいと思いました。私見ですが、既に学習指導要領は、多くの学校現場で、教育委員会も含めて、形骸化が進行しています。(私がこれまでの研究と教育で培ったのは)学習指導要領を利用して、今と未来を生きる子どもたちに、研究者として必要と判断する教育内容と方法を提示する(こと)、もう一つは、私が知る教師が実践できるかどうかというフィルターをかけることを忘れない、という教訓です。>

言論の自由について


昔ブログを書いていた時、私のブログに他の人が匿名でも自由に書き込めるようになっていた。ある時、匿名でひどい言いがかりのような文章が書きこまれていたので、すぐに削除した。するとその匿名氏から「言論の自由はないのか」という抗議が書き込まれた。その時は、「言論の自由」という言葉に、うまく反論できなかったことを覚えている。今、ネット社会では匿名による誹謗中傷が続いているが、それをどのように考えればいいのであろうか。

「言論の自由」に関して、内田樹氏が、ブログ (blog.tatsuru.com)に明確に論じていて、感心した。(一部転する)

<「自分の書いたことについては、その責任を引き受ける」、「自分が書いたことがもたらす利得については、それを占有するにやぶさかではない」><ネット上の匿名の発言の相当数が「批判する言葉」で自分自身には直接的利益をもたらさないけれど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶ><(それは)「呪い」である。><「呪いを発信する人」として知られることは、現代のような近代社会においても、その人の社会的信用を損ない、友人や家族からの信頼を傷つけるに十分である><自分がそのように危険な言葉の発信者であるという事実を自分自身に対してさえ隠蔽したいのである。><この「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。>(しかし)<あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り口にされる権利がある。これが「言論の自由」の根本原理><私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされまい。><言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。><言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。><「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。><「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。>「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発する当のその瞬間に私たちが「身銭を切って」成就しつつあるものなのである。><信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。それは「呪い」の対極にあるところのものである。>

仙台在住の 水沼文平さんより匿名の誹謗・中傷について、下記のメールをいただいた。ご了解を得て、実名で掲載させていただく。

<まず頭に浮かんだのは「「名こそ惜しけれ」という言葉です。鎌倉武士は戦いの前に「吾こそはどこそこの〇〇である。」と名乗ったものです。これに関して司馬遼太郎は、「名こそ惜しけれ」という考え方は「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできないという意味」であり日本人の倫理規範の元になっていると述べています。次に思い浮かんだのは会津藩士の子弟に教え込んだ「什の掟(じゅうのおきて)」です。その中に「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」という一項があります。また海軍兵学校の五省(ごせい)には「言行に恥づる勿(な)かりしか」というものもあります。「卑怯且つ恥知らず」は日本人が最も忌み嫌ったことです。子どもの頃、いたずらを担任に告げ口した同級生を「おくびょうもの」、「お前みたいな奴がいたから戦争に負けたんだ」(意味不明ですが当時の大人の真似だと思います)と罵ったものです。恥や卑怯という言葉が死語になっているとは思えませんが、恥知らずで卑怯な人間が増えているのが実感です。「清濁併せ呑む」ことが汚濁政治家の言い訳になっていますが、松平定信の「白河の清き」時代を思い出して欲しいものです。(水沼文平)