日本教育社会学会第72回大会に参加する

日本教育社会学会の第72回大会が、この2日間(9月5日、6日)に、オンラインで開催された。私は聞くだけであったが、ズームを使い(私は初体験)、大変楽しく、またいろいろ学べて有意義な2日間であった。

大会本部(早稲田大学)が周到な準備をしたせいだと思うが、オンラインでの学会は、実際の学会と同じようにスムーズな運営で、中身の濃いものであった。普段会うことが出来ない人が、ズームの画面で大きく見ることが出来て、参加者の何人かの写真も見れて、また発表の内容や司会の様子もじっくり聞くことが出来た。(部会の参加者は名前が出るが、自分の映像を出している人は2割程度、その背景は自宅や研究室の人と既成のものが半々であった)。発表要旨集録や当日配布資料もWEBでダウンロードでき、理解が通常の学会と同等あるいはそれ以上に深まった。とにかく会場への移動、教室への移動をしなくて、自宅のPCで発表や討論を聞ける(討論にも参加できる)というのは便利でいいと感じた。

課題研究は、課題研究Ⅱを聞かせてもらったが、下記のような内容で、150名ほどの参加があり、大変興味深く、いろいろなことを考えさせられた。

テーマ「能力主義をどう考えるか?」 , 司会:大多和直樹、討論者:溝上慎一、報告者;辰巳哲子 「文脈依存型の能力主義に関する考察」、中村高康;「暴走する能力主義のゆくえ―嗜癖としての教育「改革」、山口毅 ;「 反能力主義―教育と生存保障の結びつきに関する規範的考察」、 趣旨;これまでメリトクラシー(能力主義)という観点から教育社会をみてきた教育社会学は、(これから能力主義の)問題をどのように考えていくのか。ここでは、どのような能力を育成し選抜に用いるべきかといった議論を超えて、能力主義自体が孕む問題について、新しい能力の必要性を重視する立場、能力主義の暴走を指摘する立場、生存保障の観点から能力主義を批判する立場など、様々な観点から能力主義社会のあり方を考えていく。

学会のいいところ(それは同時に怖いところ)は、年齢や地位や師弟関係、先輩後輩関係に関係なく、対等に議論できるところである。学会外ではそれはなかなか難しい。特に東大の出身者にそれが見られるように感じた。若手が有名教授に遠慮せず意見を言い、教授の側がたじろぐスリリングな場面がみられることがある。

他者からの敬意を糧として生きる

久しぶりに内田樹のブログを読んだ。「人間は他者からの敬意を糧として生きる」というフレーズ(内容)に感心した。

「人間は他者からの敬意を糧として生きる。それを失ったものは『生きている気』がしなくなる。日本人はいまそのようにして国力の衰微を味わっているのである。」(「安倍政権の7年8カ月」 http://blog.tatsuru.com/2020/08/29_1014.html

近場で過ごす夏休み

新型コロナ禍の自粛で、皆遠出を控えるようになっている。その分、近場の公園や海浜に人が出かけるようになっている。昨日(29日)夕方、犬の散歩も兼ねて、近くの海(検見川浜)へ夕日を見に出かけた。同じように考える人が多いのか、通常車で12~3分で行くところを車で2倍近い時間がかかった。

もう夕方の6時というのに駐車場は満杯に近く、夕日を見に来た人、 夕涼みの人、 犬の散歩に来ている人、波うち際で遊ぶ子ども、ウインドサーフィンをする人、さらにヨガをするグループなどで、賑わっていた。ブランコを持ち込んで、楽しんでいる家族もいた(下記IMB参照)。

日が沈む空に雲があり、日の入りは見ることができなかったが、夕焼けはきれいで、遠くに富士山の頂上が見えた。近くの幕張メッセにある高層のアパホテルの客室の窓に明かりが7割方付いていて、近場のホテルで夏休みを過ごす人が多いことが伺われた。散歩に連れて行ったうちの犬(キャバリア)はもう歳で(14歳)、後ろ脚2本の靭帯が切れていて、幼児の乗る乳母車に乗せての移動であったが(最近は同じような犬が多いのか、奇異な目で見られることは少ない)、久しぶりの海を楽しんだようであった。

人を傷つける罪

先に書いた「人との関係は必ず、お互いを傷つけるの」ということに関して、少し補足しておきたい。人は生きる為に、動植物を殺して食べることをしているというのもそのひとつ。恋人や結婚相手にある人を選んだということは、他の人を選ばず傷つけたということでもある。またある(限られた)地位を得たということは他の人を蹴落としたということでもある。このように生きるということは、他者を傷つけずにはいられない。それだけ罪深い。

同様のことを、藤原新也も『なにも願わない手を合わせる』(平成15年、東京書籍)の中で、次のように書いている。

<この世に生を授かったすべての生き物は、罪を重ねずして生きて行くことはできない。/ 人と人が出会う。人と動物が出会う。そこには慈しみや愛が生じるわけだが、その慈しみや愛は罪と背腹の関係でもありうる。/ 性悪説をとるということではなく、「生きる」ということの中には罪を重ねるという意味合いも含まれているということである。(中略)/ あの生き仏のような赤子も、またこれから幾多の慈しみや愛や欲望や、そしてそれに見合うだけの罪科を背負う旅立ちをせねばならないわけだ。> (同 22頁)

人との距離の取り方について

今ソーシャル・ディスタンスが言われ、人との距離を取ることが推奨されている。韓国ドラマをみていると、人々が頻繁に一緒に食事をしたり飲みに行ったりして,人との距離が近い場面が多く出てくるが、私達は今、ほとんど家族以外と食事をしたり飲んだりする機会がない。人との短い立ち話も、はばかれる雰囲気である。ただ、ネットでのコミ二ケーションは可能だが、それも実際の人との接触の減少に伴い減っているように思う。このような中で、人と人とのと距離は、今後どうなっていくのであろうか。

また人との距離はどの程度が最適なのであろうか。快適な人との距離に関しては、国民性があり、アラブ人は西洋人より人との距離を近く取る傾向があり、その両者がビジネスで立ち話をしている時、アラブ人が西洋人をどんどん押して壁までいくという分析を読んだことがある。

性差や年齢差もあるであろう。また個人差も大きいであろう。特に初対面の人との距離をどのように取り、その後どのようになるかは個人差があるように思う。普通は、初対面と人とは最初ある程度の距離を取り、相手とやりとりしながらの、その距離を縮めたり遠ざけたりするのではないか。

私の場合、初対面の人との距離を最初通常より近くに設定してしまう傾向があるように思う。未知の人に出会ったのがうれしくて、勝手に親しみを感じてしまい、距離を近くに設定してしまうのである。人との関係は必ず、お互いを傷つけるので、相手が自分を傷つけた程度に応じて、相手との距離を取る(初対面の時に近かった人との距離がだんだん遠くなっていく)。このような人との距離の取り方に関して、後輩から「そのやり方はひどいと思います。それだと人はあなたから『傷つけた』と必ず恨まれるようになります。そして悪いのは傷つけた人ということになります」と言われ、びっくりしたことがある。

「間の取り方、出会いのマナーに 新しい作法」という記事が昨日(8月29日)の朝日新聞に載っていた。これから、人との距離は、コロナやネット社会の中で、どのように変化していくのであろうか。

<会わない、触らない、近寄らない。そんな「作法」が、わずか半年で世の中に浸透した。通勤、買い物の雑踏で、他人が近づくたび身をよじる。お互いがお互いの鬼である、静かな鬼ごっこのような緊張が走る。(中略)外側から来た異人に対して、まずは警戒する。受け入れる場合も、一定の条件をつけて慎重に受け入れる」(中略) Rさんがネットでの出会いに失敗しないために編み出したのは、新しいマナー、出会いの作法と言えないか。リモートで見知らぬ者同士が出会う時の、距離の取り方、時間のかけ方。そこから相手の交際への真剣さや慎重さ、人柄さえも推し量っていた。(中略) ソーシャルディスタンシング。新しい生活様式。とらされるもの、とらなければならないものになっている「距離」。だが「間」は、一人一人が、デザインできるものだ。(朝日新聞8月21日朝刊「人と間 コロナ禍の距離」より一部転載)