偶然ということ(その2)

もう少し偶然に関して書いておきたい。{わたくしはなぜ教育の道を志したか}にも書いたが、駒場の大学2年の教養課程から本郷の3年の専門学部に進学する時の最初の希望は、その頃勢いのあった宗像誠也教授や持田栄一教授のいる「教育行政」学科に出した。ところがそこは文科Ⅲ類からの希望者が定員以上いて、理科からの希望の私は無理と判断した。それで希望が多いけれど定員には充ちていない「教育社会学コース」に希望を変更し、3年次に進学した。あの時、第1志望の「教育行政学科」に進学していたら、私はそこの学科の学風に感化され、イデオロギー性の濃い思想の持ち主になっていたように思う。「教育行政コース」への進学がかなわなかったという偶然が、私のその後の進路を変えた。教育社会学の研究室は、当時量的な社会調査が重視され、学部3年の「教育社会学調査演習」の授業では、指導教授の松原治郎先生や院生の牧野暢男氏の指導のもと仮説設定から、調査の設計、調査票の作成、調査の実査、データの集計と分析、報告書の作成に多くの時間を割いた。この時の経験が、私のその後の研究の主力を量的調査に向かわせた。もし研究室の雰囲気や指導教授の研究傾向が違っていたら、私の研究も別のものになっていたのではないかと、その偶然にも思いを馳せることがある。

同じ「教育社会学」の講座でも。京都大学の教育社会学研究室の学風が全く違い、政策研究や実証的な研究よりは、理論的、歴史的、文化的(時に文学的)、人間的な研究が主流だったのではないか。そこに進学していたら、私の研究はかなり違うものになっていたであろう(このように、大学でどの学科やゼミに所属するかはその人の思考傾向に大きな影響を与える)。私自身は、京都の学風を作田啓一や多田道太郎、井上俊、竹内洋氏らの文献を読むことでしか知ることが出来なかったが、強いあこがれを感じ続けていた。京都の教育社会学の研究室で学んだ石飛和彦氏(天理大学教授)は、当時の研究室の授業の様子の一端を、氏のブログに書いていている。その箇所を読むと、東大とはかなり授業の内容や雰囲気や学問の継承の仕方が違うことがわかる(転載箇所は、非常勤で授業を担当した社会学者の大村英昭教授のこと)。

<たしか大学院のM2のときに大村英昭先生が集中講義でいらしたんだったと記憶する。ゴフマンの話をされて、たしか落語のような口調とあいまってすごくおもしろかったという印象の記憶があり、また、ゴフマンの邦訳書についていろいろ言っておられたような記憶がある(まぁ翻訳についてというか…「出会い」って何なんだ、とか…)。ジラールの模倣欲望についても話しておられたような覚えもあり、自分はレポートでジラールについてなんか文句を言ったような言わなかったようなM2的イキりを発揮したようなものを書いて提出したような覚えもある。ともあれ、大村先生は、面白くてすごく切れる、恐ろしい先生、という印象なんである。 (中略) また、大村先生が、自殺の例として「いじめ自殺」をあげて、それを、正当にも「愛他主義」(と「宿命主義」)に関連付けているところに共感しつつ、自分も以前そんなことを書いたり学会発表したりしたなあと思い出したりしてた。それはまぁ、世代、ということで、大村先生のものを読み、また集中講義を受け、またそこから自分はエスノメソドロジーのほうに行きたいと思って、じゃあ何をどう考える、とか、また薬師院さんのデュルケーム論を読み、そのうえでデュルケーム=ゴフマン=ガーフィンケルの線で何が考えられるか、みたいなことをぐじゃぐじゃいいつつ大学院生時代を送っていた世代なわけだから、まぁ、この本は、なにか懐かしい、しかしそこから自分はなにか別の一歩を進めようとしていまに至る、みたいな、そういうかんじが、個人的に、したわけである。(以下略)(「粛々と通勤電車で読む『新自殺論』。大村英昭先生の新著。https://k-i-t.hatenablog.com/

偶然ということ

村上春樹は1949年生まれなので、もう70歳になり、昔を振り返る時が多くあるように思う(若い時からそうだったかどうかは、私にはわからない)。今年の4月に発行された『猫を棄てる』(文藝春秋)の中に、「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけなことなのであるまいか。」(96頁)と書き、偶然に人に出会い少しの接触はあったがそれ以上の関係は選択しなかった人(女性)に関することを、『1人称単数』(文藝春秋、2020.7)の中に多く書いている。そこにはその人との関係を続けていたら、今頃どのようになっていたのであろうかという、偶然への思い(惜別?)も込められているように思う。このように齢をとってくると、昔を思い出し、あの時あのような偶然の選択がなかったら、別の人生があったのではないかという思いが生まれるように思う。

「遊び」の類型の中に、「めまい」「模擬」の他に、「計算」と「運」(偶然)が対局にあったように思う(うろ覚え)。「計算」は、きちんと将来の目標を持ち日々その達成を目指して意識的に努力する態度である(学校などでは奨励されている)。それに対して「運」(偶然)は、目標も持たず意識的な努力もせず、流れ(偶然)に任せる生き方であり、あまり推奨されない。

人の生き方は、未来に目標を持って努力する「計算」が推奨されそれに従う人が多いにしても、それだけでなく、時に「運」(偶然)に身を任せ、時に気晴らしにお酒を飲み(めまい)、映画やドラマを観て(模擬)生活しているのであろう。(ただ、どれが優位かは時代や人による)

「わたくしはなぜ教育の道を志したか」ということ題の原稿を依頼され(「教育展望」9月号)、目標を持って教育学を学んだのではなく、「気がついたら、大学で教育学(教育社会学)を教えるようになっていたというのが正直なところである」と書いた(下記添付参照)。別の選択(偶然)もあったのかと時々考える。

教育研究者と教育政策

今医学の研究者や医者が新型コロナの感染対策の政策にいろいろかかわっている。一方、教育の研究者や実践者は、教育政策とどのようにかかわっているのであろうか。論文や著書や学会発表やマスコミへの発言によって、教育政策に影響を及ぼすというのが、一番多いケースであるが、その政策への影響は微々たるものであろう。文部科学省の中教審の委員や有識者会議のメンバーになって発言し、教育政策に影響を及ぼすという方法があるが、それができる(それに選ばれる)人はごく限られた一部の人であろう。研究者が、政策決定の外から発言する方が科学的、客観的でいいように思うが、それは単なる批判だけで、抽象的で紋切り型の無責任な指摘に終わり、何ら政策や実践への寄与がなされない場合も多い。

先日、朝日新聞に安倍内閣の教育政策の評価に関して、二人の教育研究者が発言していた。ひとりは、政策の外からの批判で(中嶋哲彦・日本政策学会長「古い国家主義、途中から変容」)、もう一人は、外からであるが中教審の専門委員も務め中の事情にも通じている研究者(小林雅之・日本高等教育学会会長)の発言と感じた。後者の方を転載しておく。

 小林雅之・桜美林大教授「支持率を重視、甘い制度設計」(専門は教育社会学、高等教育論。各国の授業料・奨学金制度などを研究)

 第2次安倍政権の教育政策は、道徳の教科化など一部を除けば非常に福祉的で、イデオロギーの要素は見えなくなりました。大きな予算を付けて国民の人気をつかむ「ポピュリズム」的な政策が目立ちます。/ 安倍首相は、強い関心を持つ教育に国の予算を投じるべきだと考えていました。しかし、文部科学省は子どもを実験台にするような政策は打ち出しにくい。官邸主導で決まった大学入学共通テストでの英語民間試験の活用や、コロナ禍での全国一斉休校などは提案しにくいのです。/ 経済産業省系を中心とする首相官邸の官僚には、不満だったでしょう。世論の動向を見て、受けが良さそうな政策を次々と実行しました。使えるものなら野党が以前から訴えていた政策も取り込み、政権の支持率を維持してきたのです。/ 第2次政権では当初、政府の教育再生実行会議が力を持ち、大きな政策を提言しては次々と実現させました。しかし、途中から政策決定の流れが変わります。/ 実行会議は首相直轄とはいえ、事務局を務める文科省が議論をグリップできていました。一方で、財務省をはじめ他省庁との調整が壁になるなど限界がありました。/ そこで存在感を増したのが、内閣官房や内閣府が事務局を務める、様々な有識者会議です。低所得世帯向けの高等教育無償化は、首相が2017年秋の衆院選前に突然公約に盛り込んだ政策です。会議の一つ、「人生100年時代構想会議」で数カ月議論され、12月に幼保無償化などとセットで閣議決定されました。/ 文科省が実施していた給付型奨学金の予算は、19年度で約140億円、授業料減免は約540億円(大学院生も含む)。一方、授業料減免を含めた無償化制度に20年度に計上された予算は約4880億円です。ケタ違いの予算を低所得世帯の教育支援に取り込んだこと自体は、非常に意味があると思います。ただ、専門的な知識がない官邸官僚を中心に短期間で制度設計したため、様々な問題が起きています。/ 特に問題なのは、外部理事の数や実務経験がある教員の授業の割合などの要件を満たさない大学や専門学校に通う学生が、対象外となる点です。本来は大学改革の問題として扱うべきですが、じっくり議論せずに要件に盛り込んだのです。大学よりも低所得世帯の学生の割合が大きい専門学校に、要件を満たせないケースが続出し、認定が62%にとどまりました。安倍首相が訴える「真に必要な子ども」に届かない恐れが出ています。/ お金やモノを、対象者を見極めず、一律に配るのも安倍政権の特徴です。国民へのわかりやすさや、「スピード感」を重視していたのでしょう。全国の小中学生に1台ずつパソコンなどを持たせる「GIGAスクール構想」や、コロナ禍で経済的に困窮する学生に10万~20万円を配る緊急給付金などが代表的です。制度設計が甘いために、いわゆる「アベノマスク」で起きたような問題が、教育政策でも起きないか心配です。/ ただ、コロナ禍で大学などの混乱が続いているため、教育政策の成果が見えにくくなっています。安倍政権が進めた政策をしっかり評価するには、もう少し時間が必要です。(聞き手 編集委員・増谷文生, 2020年9月11日,、朝日新聞 デジタル)

学会大会のオンライライン開催について

日本教育社会学会の第72回大会は、新型コロナ禍の感染防止のため、急遽9月5、6日の2日間オンラインで開催された(参加費2000円)、会場に集まる例年の大会と同様470名の参加があり盛況であった。オンラインの学会には、期待以上の充実した大会だった、と感じた人が多かったではないか。参加してみて、メリットを感じた人が多かったと思う。学会からは来年の学会は「どのような形態の開催がよいか」というアンケートも来ている。最近のメール中に書かれた感想を記録にとどめておきたい。

「私もオンライン学会に参加しましたが、思ったよりもメリットの方が多かったです。部会の移動も容易にできるので、いつもより多くの発表を聞くことができました。課題研究も飛行機の時間を気にすることなく、最後まで参加することができました。発表資料の印刷も不要でしたし、空いた席を探してうろうろすることもありませんし、印刷部数が足りず資料を取りそこなうということもありませんでした」(N氏)

「教育社会学大会は参加者が多く、盛況で、一部で報告が通信環境のため、取りやめになった程度ではないかと思います。通信の不安定性以外、いくつか技術的な問題はありますが順次解決されていくと思います。(ズームの)チャットで事前にコメントが送れるのも若い人たちは積極的に活用しています。これからは、オンラインとオンキャンパスのハイブリッドになっていくことと思います。WondowsとMacと両方で、ズームを試したところ、同じアカウントで違う部会に同時にアクセスできることがわかりました。」(K氏)

 「オンライン学会自体は、あのシステムも含めてとてもよく準備されたもので、関係者のご苦労がうかがえました。各部会へのZoomの誘導のしかたとか細かい部分を含めて、動線がシンプルだったと思います。発表すること自体は、Zoomなどのオンライン会議システムで授業をおこなった経験があれば、特段難しいものではなく、発表中の機材のトラブルを心配するだけでよかったと思います。デメリットは、リモートの授業でも同様なのですが、「ちょっとした会話」がまったくできないことです。普段接する機会のない方々と交流するきっかけが皆無でした。たとえば、対面式だと、部会終了後に発表者同士でお互いに非公式のコメントをすることも多いですが、それがしづらいです。あのシステムの「コメント」機能を使う方法はもちろんあるのですが、アクセスした人には「公開」されますし、「わざわざ文字にしてまで…」という場合には、ハードルが高すぎます。また、単に「あいさつをする」だけもできませんし。(ざっとみたところ、各部会の「コメント」での質問等はそれほど活発におこなわれていなかったようです。)(T氏)

学会からは、次のお知らせも来ている。「1.本大会で用いたウェブサイトConfitはこのまま使用できます。特に、大会中には時間がなく、オンデマンド報告が見られなかったという声が寄せられておりますが、ぜひ今からでもご活用ください。2.大会で使用したZoomのアカウントは9月23日までの打ち合わせ・研究会などでご使用できます。」

知識や知性の動的側面

アクティブ・ラーニング、つまり「主体的・対話的で深い学び」の重要性が盛んに論じられている。これは、静的ではなく動的なことの重要性の強調のように思われる。動的というのは、個人内に留められるのではなく、他者との相互作用(対話等)や社会とかかわりで、外に影響を及ぼすというものである。

知識に関しても、単に個人の中に蓄積されればいいというものではなく、その知識が他者や社会と交わり、影響を及ぼすというものである。学会の大会などは、まさに個人の知識の表明に止まらずその交換や共鳴で、そこで新たな知識が生まれ、参加者に共有される場である。学校や大学の授業もそのような知識の動的な創造、共有の場になるのが理想かもしれない。

内田樹の反知性主義者たちの肖像」(内田ブログ2020-09-03 )も、そのような文脈の中で理解した(以下、一部転載。これは知識ではなく、知性について論じているが)

 <私は、知性というのは個人に属するものというより、集団的な現象だと考えている。人間は集団として情報を採り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行う。その力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を「知性」と呼びたいと私は思うのである。/ ある人の話を聴いているうちに、(中略)「それまで思いつかなかったことがしたくなる」というかたちでの影響を周囲にいる他者たち及ぼす力のことを知性と呼びたいと私は思う。・/ 知性は個人の属性ではなく、集団的にしか発動しない。だから、ある個人が知性的であるかどうかは、その人の個人が私的に所有する知識量や知能指数や演算能力によっては考量できない。そうではなくて、その人がいることによって、その人の発言やふるまいによって、彼の属する集団全体の知的パフォーマンスが、彼がいない場合よりも高まった場合に、事後的にその人は「知性的」な人物だったと判定される。/ 個人的な知的能力はずいぶん高いようだが、その人がいるせいで周囲から笑いが消え、疑心暗鬼を生じ、勤労意欲が低下し、誰も創意工夫の提案をしなくなるというようなことは現実にはしばしば起こる。きわめて頻繁に起こっている。その人が活発にご本人の「知力」を発動しているせいで、彼の所属する集団全体の知的パフォーマンスが下がってしまうという場合、私はそういう人を「反知性的」とみなすことにしている。これまでのところ、この基準を適用して人物鑑定を過ったことはない。> (http://blog.tatsuru.com)