偶然ということ

村上春樹は1949年生まれなので、もう70歳になり、昔を振り返る時が多くあるように思う(若い時からそうだったかどうかは、私にはわからない)。今年の4月に発行された『猫を棄てる』(文藝春秋)の中に、「我々は結局のところ、偶然がたまたま生んだひとつの事実を、唯一無二の事実とみなして生きているだけなことなのであるまいか。」(96頁)と書き、偶然に人に出会い少しの接触はあったがそれ以上の関係は選択しなかった人(女性)に関することを、『1人称単数』(文藝春秋、2020.7)の中に多く書いている。そこにはその人との関係を続けていたら、今頃どのようになっていたのであろうかという、偶然への思い(惜別?)も込められているように思う。このように齢をとってくると、昔を思い出し、あの時あのような偶然の選択がなかったら、別の人生があったのではないかという思いが生まれるように思う。

「遊び」の類型の中に、「めまい」「模擬」の他に、「計算」と「運」(偶然)が対局にあったように思う(うろ覚え)。「計算」は、きちんと将来の目標を持ち日々その達成を目指して意識的に努力する態度である(学校などでは奨励されている)。それに対して「運」(偶然)は、目標も持たず意識的な努力もせず、流れ(偶然)に任せる生き方であり、あまり推奨されない。

人の生き方は、未来に目標を持って努力する「計算」が推奨されそれに従う人が多いにしても、それだけでなく、時に「運」(偶然)に身を任せ、時に気晴らしにお酒を飲み(めまい)、映画やドラマを観て(模擬)生活しているのであろう。(ただ、どれが優位かは時代や人による)

「わたくしはなぜ教育の道を志したか」ということ題の原稿を依頼され(「教育展望」9月号)、目標を持って教育学を学んだのではなく、「気がついたら、大学で教育学(教育社会学)を教えるようになっていたというのが正直なところである」と書いた(下記添付参照)。別の選択(偶然)もあったのかと時々考える。