若い人の韓国ドラマ観

「冬のソナタ」から始まった韓国ドラマブームは、その後断絶も繰り返しながらも、歴史ものを中心に比較的高齢者層に人気があると思う。若い人はどうなのであろうか。若い人は高齢者のように暇でなく、ドラマを落ち着いて観ている時間がなく、それほど話題になることはないのではないか。

私の冊子『教育、大学、文学、ドラマ、日常』(2022.9)のⅧ章は「韓国ドラマ、映画」であるが、それを読んだ学生の何人かがその感想を寄せてくれた。その一部を紹介する。

若い世代が韓国ドラマにそれほど関心を寄せていない様子が伺われるが、「韓国ドラマ好きの親の影響で見るようになった」「K-ポップが好きで、その歌手が出演しているので見るようになった、バックの音楽(OST)がいい」などの感想が見られる。さらに「友人や冊子に薦められて韓国ドラマを観てその面白さを知った。もっと観てみたい」という感想も寄せられている。政治的にはギクシャクしている日韓関係の中で、日本の若い人が隣の韓国のドラマを観て、韓国の文化や価値観を理解することは、今後の日韓関係にとっていいことだと思う(以下、学生の感想の一部抜粋)

A 私は元々ドラマを観ることが少し苦手だ。それは嫌いとかではなく、テレビの前でじっと座ることや合間合間にあるCMによって集中が途切れるといった理由による。だが最近友達に勧められ、ネットフリックスで一緒に韓国ドラマを観ることになった。それは、日本のドラマでは感じることのできないものを韓国ドラマで感じた。そのドラマとは「その年、私たちは」。「なにが起きたか」ではなく「その時どう感じたか」に焦点を当てていて、ドキュメンタリーを撮影する内容。演者さんが自然な演技を見せているから、私は目を逸らさずドラマに釘付けで、「観なくちゃ」ではなく「もっと観たい」という気持ちが大きくなった。韓国ドラマは演出・演技・セリフ・カメラワークがとにかく絶妙でそして繊細。そして全ての人物に共感できる部分があり、それが切なくもあり、もどかしくもあり、温かくもあり。色々な感情を一気に掻き立てるものがある。また、恋愛に関しても、日本のドラマとは違うものも沢山ある。だからこそ、韓国ドラマはどこか惹きつけられるものがあり、引き込まれるものだということがよくわかる。

 B  私は韓国の文化にとても興味があり、よくKPOPアイドルのライブに行ったり、韓国語の勉強をしたりします。しかし、韓流ドラマを見たことがあまりありません。韓国のドラマは話数が多く、一話の時間も長いので、途中でリタイアしてしまいがちでした。この中では唯一、「マイ・ディア・ミスター 〜私のおじさん〜」のみ完走することができました。そのくらい惹きつけられるドラマだったと思います。初めはあまりにも暗すぎて心配になるレベルでしたが、徐々に心温まるストーリーになっていきました。特におじさんたちにとても癒されました。ジアン役の「IU」は、KPOP歌手で「国民の妹」と親しみを込めて呼ばれるほど愛らしいイメージなのですが、笑顔がなく冷たい感じの役もこなせていて、その演技力に驚きました。また、ドンフンとジアンだけでなく他の登場人物にもスポットライトがあたり、面白かったです。最終話はめちゃくちゃに泣けましたし、私にとってもまた見たいと思えるドラマです。そして、映画「私の頭の中の消しゴム」はずっと気になっていたので、冬休みに見てみようと思います。「梨泰院クラス」のOSTですが、KPOPはメロディアスでおしゃれな曲が多いですし、歌唱力もすごいので、つい聴き入ってしまいます。梨泰院クラスのOSTの中なら、6番のVERIVERYという男子グループの「With Us」という曲がとても好きです。サビの「더는 혼자가 아냐」(もう1人じゃないよ)という歌詞に何度も支えられました。他のOSTもバラード系が多く、よかったです。

 C  私は趣味が韓国ドラマを観ることで母の影響で小さい頃から好きだからです。私は、冊子の中の「梨泰院クラス」「愛の不時着」「彼女は綺麗だった」「屋根裏のプリンス」「パラサイト‐半地下の家族」「六本木クラス」を見たことがありました。韓国ドラマの中には様々な人生観が学べて、実際に経験したように心に染み込んでいくストーリーのドラマが多いように感じて、なかなか沼から抜け出せないです。想像以上にありえない展開が多い中に、現実でも実際に起こり得そうなリアルな内容があったり、謎や伏線が張られていることが多いため緊張感があり、気がついたらドラマの世界に引き込まれてしまいます。韓国は隣国であるため、米国のドラマに比べると見やすさを感じますが、たくさん見ていくと、日本との違いや共通点を数多く見いだすことができます。文化の違いであったり、学校の様子も全く違うので、韓国の人がどのような意識を持って生活をしているのか考えるきっかけになります。特に、韓国のドラマからは仕事に対する思いや、家族に対する思いが強いように感じます。最後に、冊子の中にはまだ見たことのないドラマが沢山あったので、ぜひ観てみたいと思いました。

子どもの思いやり行動形成の理論について

子どもが相手への思いやり(自己中心的な欲求を抑えた利他的心情)をもつようになるメカニズムに関しては、作田啓一の『価値の社会学』(岩波書店、1972)のどこかに書かれていたように思う。下記の記述が該当するかもしれない。

「子供がある程度成長すると、親はしつけを始める.子供のわがままは、かってのように何でも許されるというわけにはゆかなくなり、しばしば禁止される。だが子供は既に親に愛着しており、また独立して生活しえない無力な存在であるので、親から逃げ去ることができない。こうして自己中心的な欲求の充足と親の愛や保護をつなぎとめておきたいという欲求とが同時に成立しえない葛藤状況が出現する。この葛藤を解決する方法はただ1つしかない。それは,みずからを親と同一化し、彼らが望ましいものとしている価値を自分の価値することである。この取入れが成功して価値が内面化し始めるにつれ,しだいに超自我が形成されていくのである。」(同103ページ)。

さらに下記のような文献のあることをI氏が教えてくれた。それは子どもに先天的に備わっている素質なのかもしれない。

 「人間には、困っている人にお金や食べ物を分け与えたり、困っている人を慰めたりと、他人を助けようとする性質がある。このような利他的な行動は、親から道徳的なルールを教わったり、人に親切にすることで報酬を得たりと、文化的な背景があると思われがちだ。さらに、利他的な行動は人間特有のもので、他の動物は利己的な目的だけで生きていて、利他主義者になる方法を教えてくれる親もいないから、このような行動をとらないと考える人も少なくない。/ しかし、いくつかの科学的知見から、人間の利他主義はこれまで考えられていたよりも根深いと示唆されている。具体的には、私と同僚は、人間の子どもは、文化的ルールを教わるなどの社会的経験がその成長に大きく影響する前の、非常に幼い頃から利他的な行動をとっていることを示す研究を進めている。幼い子どもを研究することで、私たちがどのような利他的行動を早い段階でとれるかを明らかにし、その傾向が文化的ルールや道徳教育と結びついてどのように発達していくかを追跡できる。こうして、哲学者トマス・ホッブスとジャン・ジャック・ルソーの時代から議論されてきた疑問に対する答えを得られる。利他主義とは、(ホッブスが信じていたように)人間の利己的な性質を制御するために採用された社会のルールの結果なのか?それとも、ルソーが考えていたように、人間には他人を思いやる自然な傾向があるのか?/  幼い頃の子どもたちは、人がなぜそうするのか、どのようにしてそうするのかを知りたがり、驚くほど知的に物事を観察する。例えば、1歳の子どもは、誰かがユニークな道具を使ったり、装置のボタンを押したりして、驚くべき効果を生み出すのを見ると、その人が意図的にやったことと偶然のことを区別できる。そして、自分がその道具を使ったり、ボタンを押したりするとき、その人がやったことをすべて真似るのではなく、その人が意図したことだけを真似る。子どもは行動をコピーするのではなく、意図を読み取る。この「意図を読み取る力」が役に立つ。子どもは他人を観察して学ぶことで、役に立つことと役に立たないことを区別し、他人の行動のうち真似する価値のある部分だけを真似するようになる。/   私の考えでは、もう一つ、意図の読み取りが不可欠なのは、「援助」である。問題を抱えた人を助けるには、その人が何をしようとしているのか、何をしようとしていないのかを見極める力が必要だ。幼い子どもたちは、意図の読み取り能力を、自分のため(この道具はどう動くのか、どのボタンでテレビがつくのか)だけでなく、他人を助けるためにも使うのか? 例えば、誰かが物を落として手を伸ばしたとき、幼児は、落としたのは偶然で、相手が今その物を拾おうとしているのだと理解できるか? 助けることができるか? このような疑問に答えるきっかけとなったのは、社会的遊びの研究で1歳の男の子と一緒に床を這って遊び、適切なパートナーになろうとしたときのことだ。ボールが私の手の届かないところに転がり、私が届かないふりをすると、男の子は立ち上がってボールを拾い上げ、私の手に渡した。/   この瞬間をきっかけに、幼児の利他的行動に関する一連の研究が始まった。これらの研究から明らかになったように、子どもはさまざまな方法で他人を助け、それを人生の早い段階から始めている。私と同僚は、1歳8カ月の子どもたちに、ある行動をする実験者を観察させ、突然問題が発生して実験者が目的を達成できなくなるという状況をいくつか作り出した。すると、子どもたちは、頼まれもしないのに、ご褒美ももらわずに、手伝いをしていることが分かった。実験者が地面に落として手を伸ばせないでいるものを、子どもたちが拾ってあげた。実験者が雑誌の山を運んでいて開けられなかった戸棚の扉を開けてくれた。滑り落ちた本を元の場所に戻すのを手伝ってくれた。ある箱の開け方を習った後、実験者が誤ってスプーンを穴から箱の中に落としてしまい、それを取ろうとして手を穴に押し込んだのを見て、習った技を使って箱を開け、スプーンを取ってあげた。子どもたちは、助けが必要かどうかを判断し、さまざまな状況でそれを行えたようで、これは幼児期の早い時期に出現する知的意図読解能力を示している。”Children’s Helping Hands,” by Felix Warneken in Future Science: Essays from the Cutting Edge, edited by Max Brockman, Vintage Books, New York, 2011, pp. 17-19 . (原文は下記,翻訳は自動翻訳⁺I氏)

幼児の発達についてー相手の立ち場に立って考えられるのは何歳から?

この間、幼い子どもと接する機会があり、子どもの発達に関して、知りたいと思ったことが生じた。まだ調べていないが、その疑問(問い)を書いておこう。それは、「相手の立場にたって考える」ということが、何歳からできるようになるのか。またそのように考えるようになるきっかけ(しつけも含む)は何かということである。「性自認」の研究というのがあって、何歳から「自分は男だ、女だ」と自認(認識)するのかという研究があるが、それと同様に「相手の立場に立つ」ということが何歳からできるのであろうか。幼い子どもは、自分中心で自分の好き嫌いで行動するのが基本だと思うが、他者の立場に立って考えられる(それが思いやり行動として表れる)は、いつからなのであろうか。

次のような2つのことを観察した。1つは、親に抱かれた1歳半の女の子に、こちらに来るようにと手を差し出すと、嫌がって親の方に強く抱き付くが、その時、何か「すまない」という表情をするのが見えた。それは相手の気持ちがわかるという表情(仕草)ではないかと解釈した。そうだとすると、1歳半で他者の意向を理解(認知)しているということである。(相手の立場に立ってそれを受け入れるようになるのは、もう少し後のことだが。)もう一つは、4歳半の男の子と話していて、何かのきっかけで「爺(じじ)は嫌いだ」と言い出し、「爺は1,062番」と言った。それに対して、私は「Kくんは1063番」と言い返したら、激しく泣き出した。その時感じたのは、「自分が相手を嫌いだ、順位は低い」と言えば、当然相手からも「あなたが嫌いだ、順位が低い」と言われるものと、4歳半児は期待(想像)していると思っていたが、泣き出すということは、全くそう思っていないということの表れと判断した。つまり、この4歳半の子は、相手の立場に立って考えることが全くしていないということである。(ただ、1歳半の妹に対して親切にすることもあり、相手を選んでいるのかもしれないが)

小学校で特別の教科になっている道徳教育の徳目の中の、「B 主として人との関りに関すること」の中に、「7 親切、思いやり」という項目があり、そこには、「お互いが相手に対して思いやりの心をもって接するようにすることが不可欠である。思いやりとは,相手の気持ちや立場を自分のことに置き換えて推し量り,相手に対してよかれと思う気持ちを相手に向けることである。(中略)具体的には,相手の立場を考えたり相手の気持ちを想像したりすること」と書かれている。これは、小学校の児童に学校で教えられることであり、小学生以下の幼児には、無理ということなのであろうか。

家庭において、親は、相手の立場に立って考えるということを、子どもに何歳から教えているのであろうか。このような、子どもの発達や発達課題、そしてしつけや道徳教育のことを、これから少し調べてみようと思った。

晩秋の稲毛海岸

久しぶりに稲毛海浜公園に行った。「花の美術館」が改修中の為、見るものがなく、訪れる人も少ない。新しく出来た桟橋(素敵な椅子が設置されていた)からみる富士山は綺麗であった。広い芝生の公園も人も少なく、老人3人が凧揚げをして暇をつぶしていた。