アナログか、デジタルか

今、アナログからデジタルの時代になり、日頃接している3歳の子どもを見ていると、もうかなり以前から、インターネットに接続したタブレットを自由に操り、自分の好きな動画を見ている。この子が、学校に上がる頃は、タブレットのデジタル(電子)教科書は普通になっているであろう。

ただ、同時に紙媒体の絵本もよく見ているので、その併用になるのではないかと思う。

アナログカメラとデジタルカメラの違いについて、写真家の藤原新也は、下記のようにコメントしている。

――カメラはアナログからデジタルに様変わりしましたが。

デジタルかアナログかという二者択一的論議は不毛です。なぜそこまで深刻なのか。絵を描く場合、油絵の具もあれば鉛筆もあれば水彩もある。写真メディアの中で絵を描く筆や絵の具が、ひとつ増えた程度に軽く考えればいい。アナログはアナログの長所と短所があり、デジタルもまたしかり。互いにその長所を生かせばいい。(朝日新聞・夕刊 8月12日)

これからの教科書も、アナログの紙媒体の教科書とデジタルの電子教科書は、お互いの長所を生かし、併存していくことであろう。

 

 

 

 

 

 

 

「加害者意識」の行方

小田実の「何でも見てやろう」は、旅行者のおりた視点からの考察に過ぎない、という江藤淳の批判は納得できても、小田実の「加害者意識」の方は、どうであろう。こちらは、なかなかな難しい。

ただ、次のように考えられないであろうか。

「加害者意識」という論理を推し進めると、究極は被害者の側に絶対的正義があるということになる。社会の一番の被害者や社会の最底辺の人の立場に立つことが、正義ということになる。この政策は、社会の弱者(貧困層、子どもなど)の為にならないからよくないという言い方になる。これはある程度(いやかなりの程度)正しいが、この論理に正面切って逆らえないだけに、多くの人(特に知識人)へのこけ脅しになり、常套的によく使われる。

社会のしくみは、どこでも加害者、被害者を生み出すし、また富んだものと貧しいものを生み出すのであって、それを完全に否定しては、社会は成り立たないし、人は生きていけない。それを少しでも少なくする努力をすることは大切であるが、それの徹底を理想とすることは、逆にファシズムに繋がる。これは、差別や格差問題だけでなく、いじめ論やジェンダー論にも通用することだと思う。

「加害者意識」という論理は、その後消えていった。しかし、ある程度は正しい論理なので、再考してもいいのかもしれない。

 

昔 読んだ本―江藤 淳 『アメリカと私』

「おりるのがきらいな私には「海外生活」というキラキラした舞台にのぼる役まわりも気に入らなかった。『何でも見てやろう』(小田実のベストセラー、引用者注)というおりた観察者の姿勢に無理があるように、「いつでも眺められている」という自意識に縛られた演技者のポーズも不自由なものである。「生活」というものが、ひっきょう見たり見られたりという戦いの連続である以上――しかもだれもとくに意識してそうしているのではない以上、見る一方、あるいは見られる一方という外国生活が、健康というもの理由はないのである」(江藤淳『アメリかと私』) 

この文章を読んだ時の衝撃が忘れられない。それまで、小田実ファンだった私の熱は一気に醒めてしまった。旅行者の視点を、「おりた観察者の姿勢」と一刀両断に切り捨てる鮮やかさに唸らされた。「『生活』というものが、ひっきょう見たり見られたりという戦いの連続」と、生活者の視点の指摘にも共感した。 

私は海外旅行で、カナダのバンフの美しい自然を見た時も、フロリダのディズニーワールドに行った時も、さほど感動しなかったのは、そこに人々の「生活」がないと感じたからであろう、それほど、江藤淳のことばは後に響いた。(家人からは「あなたは旅行の楽しさが何もわかっていない。もう一緒に旅行しないと、」言われてしまたが、、)

数年前に上海に行ったとき、河を行き来する遊覧船に乗った。地方からの中国人の観光客が多く、甲板で演奏されるジャズに踊り出す中国人も多く、その人たちに混じっていると、自分も御上りの中国人になった気分で、感動した。上海のホテルのまわりの人々の暮らし(通勤や通学の様子)を、朝早起きして見て回るのも、私の旅行の楽しみであった。 

江藤淳の『アメリカと私』は、江藤淳がプリンストン大学で2年間、日本文化や日本文学の教師をした生活者の視点で、アメリカ人やアメリカ社会について書いた本である。そのアメリカ体験が、帰国したからの名著『成熟と喪失―母の崩壊―』を生んだ。

 

利己的行動、利他的行動

「人間が行為する場合、彼がカテゴリーは基本的に3つしかない。ひとつは、得か損かという利害で、こうすれば得あるいは損をする、したがってこれこれをするというカテゴリー。二番目は、正しいか正しくないか、よいか悪いかですね。その二つの他に「好き嫌い」のカテゴリーがある」「マックス・ウエーバーという社会学者が人間の行為の類型として<目的合理的行為><価値合理的行為><感情的行為>の三つを構成したことがあります」(作田啓一「好き嫌いの社会学」) 

上記は、作田啓一の文章からの引用だが、人の行為を解釈する時は、第一に自分の利害に基づき、自分に得になることをするという<目的合理的>な見方で見るといい、と説明しているのであろう。それで解釈できない時、その人の利害を離れて、その人の価値観に基づく行為であるとみる。自分の利害を離れて行動することは、そんなに頻繁に起こるわけではない。正義の為や価値的行為のように見えて、そのホンネは自分の利益の為ということもよくある。

このように考えると、社会学は、利己的な人間を前提に、人の行為や社会の成り立ちを考えているようにも見える。ただ、そのように考えておくと、利害を離れた価値的な行為に出会ったら、もうけもの(嬉しい)と思え、人生が楽しくなる。社会学者は、利害に敏いのではなく、傷つきやすいのである。

人は、自分の利益の為に行動する自己愛の強い志向を持っているが、自己愛の程度は人によるのかもしれない。自分の利益より、家族や子どもの為、友人の為、所属する集団や組織の為、国家や地球の為に、働こうとする人、働いている人もいる。

自分の為の利己的な行動でも、他者の立場を考慮に入れた時、それは利他的を含み、利己的な意味が変わってくる。人は社会的な動物であり、利他的(他者の利益を考慮する)にならざるを得ない。

暑さの為、ボーとして(?)、人は利己的なのか、利他的なのか、という自分にはあまりふさわしくないテーマで、少し考えてみた。 

知人のMさん(ほぼ同年代)より、コメントをいただいた。一部抜粋させていただく。 

 「利己的行動、利他的行動」を興味深く拝見しました。「三つ子の魂百まで」という諺がありますが、性格と自己規範は後天的なものよりも幼少期に形成されたような気がします。(私の場合)まず「得か損か」ですが、この考えを否定するものとして「いやしい」とか「あさましい」という言葉を教え込まれました。仏壇に供えられた菓子に手を出したり、料理がまずいと言ったりしたら厳しい叱責を受けました。「良いか悪いか」ですが、幼児の頃、近くにお寺があり、本堂に地獄絵が掛かっていました。お寺の和尚さんが私に悪い事をするとこうなるのだと教えました。地獄絵の恐怖を回避するものとして両親から幼少期には「嘘をつくな」「物を盗むな」「弱いものをいじめるな」「卑怯なことはするな」「ゴミを捨てるな」、少年期に入ってから「言い訳をするな」「卑怯なことはするな」「約束を破るな」「不正をするな」などを徹底的に仕込まれました。

 

 

昔 読んだ本、作家―小田実

若い時、小田実の著作に惹かれた時があった。小田実全作品を購入して読んだように思う。ただ小説はよかったという印象はなく、その評論や思想に惹かれていたのかもしれない。

特に、「べ平連」の運動の基調になっている「加害者意識」「思った人が行動する」というスローガンにひかれた。当時、ベトナム戦争があり、ベトナムで多くの子ども達も死んでいた。日本はベトナム戦争に憲法9条があり、参戦はしていなかったが、アメリカ軍の後方支援は間接的にしていた。その為経済的には潤い、ベトナム特需で、日本人の生活は豊かになって行った。ベトナムの子どもたちの犠牲に上に、我々の豊かな生活があり、日本人はベトナム戦争の加害者であるという小田実の主張は、納得できるものであった。「べ平連」のデモにも参加した。また、大学院での研究(テーマ)も、自分の加害者性を否定するのはどうしたらいいのかということを、自問した。その小田実に関する紹介が、今日の朝日新聞にあったので、転載(一部抜粋)する。 

今こそ小田実―ベ平連、日本の加害者性問う(2015810日) 

「殺すな」と訴える反戦運動が日本にあった。先頭には、焼け跡から来た男がいた。1967年、米紙ワシントン・ポストに「殺すな」という日本語の文字が躍った。ベトナム戦争に抗議する日本の反戦団体「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)が出した意見広告だった。 米軍がベトナムへの空爆を始めた65年、ベ平連は結成された。代表に就いたのは32歳の作家・小田実だった。

ベ平連で小田は一つの発見をした。米国の戦争に日本が「加担」しているという事実だった。ベトナム攻撃に向かう米軍機は、日米安保条約に基づいて日本が提供する基地を利用していた。小田は「私たちの加害者性」を問うた。

国家に服従させられることで人は「殺す」立場に置かれる。小田は「市民の不服従が大事だ」と訴えた。

<足あと> 1932年、大阪生まれ。51年、小説「明後日の手記」。61年の世界旅行記「何でも見てやろう」がヒット作に。65年、ベトナム戦争に反対する「ベ平連」が始動、代表を務める。07年、75歳で死去した。