写真投影法について

藤原新也の授業の映像を見て、昔読んだ野田正彰『漂白される子供たち』に載っていた写真投影法を思い出した。
その方法を、当時の学生に試みたことがあるが、こちらに力量がなかったのか、うまくいかず、その方法をすっかり忘れていた(野田氏には、一度子どもに関するシンポジウムでお会いし、雰囲気のある人だったなといういい印象がある)。

ネットで、写真投影法で検索すると次のような文章が出てきた。

「写真投影法(Photo Projective Method: PPM)とは、写真による環境世界の投影的分析法である。(野田正彰,1988,『漂白される子供たち』情報センター出版局)。この方法では、調査対象者にカメラを渡し、何らかの教示を与えて写真を撮らせる。そして写真に撮られたものを、自己と外界との関わりの反映と見なし、認知された環境(外)と個人の心理的世界(内)を把握、理解しようとする方法である。PPM は、環境学や地理学、心理学などの学問領域で注目されている。これは、これまで言語レベルでの測定によってしか知りえなかった撮影者の視覚的世界や心理的世界が、写真という視覚的データを介して垣間見られるからである」(「写真投影法による場所への愛着の測定」林幸史・岡本卓也・藤原武弘、http://www.kwansei.ac.jp/s_sociology/attached/6324_52317_ref.pdf)

藤原新也は、嫌いなものを写真に撮ってくるように子ども達に指示し、その理由を考えさせ、それに適切なコメントをし、子ども達の考えにあたたかくも鋭い意見を述べていて、それには感心させられた。
林氏らのように、学生に大学のキャンパスの写真を撮ってきてもらいそれにコメントを添えてもらい、それをもとにインタビューや議論することをしたら、大学論、学生論として何かできるのではないかと思った。

ただ、考えてみると、私のこのブログは、半分以上がまず、写真があり。(私の写真は、気になるものを撮っているつもりだが、実際は好きなものを、基本的に撮っているような気がする)、それにコメントを書いている。まさに、写真投影法を実践しているのである。野田氏のような精神科医がみたら、たちどころに、私の精神鑑定はなされてしまうのであろう

祭日も大学は授業

今日(23日)は、祭日。でも大学は、授業数の確保の為に、祭日でも授業がある。
「祭日なのに授業なんて」と思っている教員や学生も少なくないと思うが、大学に行くと、(午前中は、)普段とは違う華やぎも感じられる。
 祭日気分と平日気分が半々で、少しウキウキ感が高い感じがする。午後になると、明日からの授業のことを思い、テンションも下がる(自分の気持を述べているだけかもしれないが。もっとも、現代のブラックバイトが横行している中、授業がありバイトを入れない祭日で、学生はうれしいのかもしれない)

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晩秋の御宿海岸

 うちのソフィー(キャバリア犬)は、普段家から50メートルくらいしか、散歩しない。しかし、海に連れて行くと、砂浜を喜んで駆け回る。 このところ忙しく、外房の御宿海岸まで散歩に行っていない。昨日(11月22日)2か月ぶりの御宿に、ソフィーは大喜び。
 海は少し風があり、サーフィン日和なのか、多くのサーファーが晩秋の海を楽しんでいった。
 御宿は東側にある海岸なので日の出がきれいな場所であるが、日の入りもそれなりに見られる。

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藤原新也の課外授業

NHkテレビの番組「課外授業―ようこそ先輩」に、56歳の藤原新也が出ている。今から15年前である。
学校は、藤原新也が44年前に卒業した門司海青小学校で、6年1組28名の児童に対して、写真を材料に授業を行っている。
児童に、嫌いなものに関して写真を撮って来てもらい、その理由を聞いたり、それに文章を添えてもらい、それ対してコメントするという極めてシンプルな、そして即興的な授業だが、藤原新也の思想や人となりがよく出ていて、興味深い。
15年前の藤原新也は、とても若く、こんなだったのかと驚く。
(下記のアドレスを入れると、みることができると思うのだが)
http://wikyou.org/info/ituneBEST100/iTunes.php?key_2=藤原新也

少子高齢化社会 -老人の日々

高齢者人口が増加の一途をたどり、高齢者(老人)は、毎日何をして過ごしているのであろうか。
ニューレジャークラスが出現し、レジャーが盛んになっている気がする。ただし、高齢者にもお金持ちもいれば、そうでない人もいる。老人のレジャーにも格差が生じているのであろう。
私の住んでいる地区(千葉市の稲毛区宮野木)は、周りに高齢者が多く、老人が多く住んでいる地区のような気がする。私の入っている「卓球愛好会」も老人が多く、平均年齢は60歳を超えている。今日は、その小学校の校庭ではゲートボールの大会が開かれ、多くの老人が集まっていた。2日ほど前の平日に開かれたこの地区のゴルフのコンペには多くの人が参加したと近所の人に聞いた。
以前にも書いたが、近くの整形外科に行くと、老人ばかりで、スタッフは若い人で、さながら老人ホームだと感じた。また、スポーツクラブも、お客は老人、スタッフは若者で、同じような感じである。
家の近くの、自然食品の店(ふれい広場)という看板の店に、女性の老人がよく集まっている。1日に何回かセミナーのようなものがあり、それに参加すると何か景品のようなものがもらえるようで、人が溢れている。何か余計なものを買わされなければいいが、と心配になる(先日、その店に来た老人が倒れたらしく、救急車が横付けになっていた。) 
平日の、スーパーの中にあるゲームセンターには、母親と幼い子どもだけでなく、老人がかなりいることに気がついた。ゲームセンターにまで、老人が進出している。
これから少子高齢化で、日本はどのようになっていくのであろうか。

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追記
 NHKスペシャル「いのち 瀬戸内寂聴」(再放送 25日水 0時10分~)を見ると、91歳という齢でも、いろいろなことができることがわかる。

 水沼文平さんより、下記のコメントをいただいた。深く御礼申しあげる。 掲載をお許しいただきたい。

先生のブログ「少子高齢化 老人の日々」を読んで「老人とは何か」「老人とはどうあるべきか」を考えました。
駅の改札口で小旗を持った人を囲んでいる年寄のグループをよく見かけます。どこか徒歩旅行に出かけるのでしょう。大きな公園で写真家の指導で小さい植物を撮っている年寄グループを見たこともあります。定年退職後にグループで趣味やスポーツに興じるのは健康的にも精神的にもいいことだと思います。そのうち私も仲間に入れてもらいたいと思っています。
さて、テーマに戻ります。近所に小さい公園があります。そこにはベンチが5つほどあります。昨年の春くらいから同じベンチに同じ老人が座っているのを見かけるようになりました。何もしないでぼーとしているように見えます。ある時、ベンチの半分が空いていたので私はその老人の隣に座りました。「近所にお住まいですか」と問われ会話が始まり、その人は83才、近くのマンションに娘さんと二人で住んでいることを知りました。「いつも何をなさっているのですか」と私が尋ねたら「回想しているのです」という思わぬ返事が返ってきました。ちょっと驚きましたが、後になって「回想する」ということは老人だけに許される行為(特権)だと気づきました。
私が生きてきた69年と5ヶ月は「回想する」に足る十分な年月だと思います。仏教が定義する「遊行期」は人生を回想する期間、回想とは自分の人生を遡行し母親の胎内に戻るプロセス、つまり死によって宇宙という胎内に回帰するプロセスかも知れないと思いました。
私は水泳を趣味としていますが、先生のように卓球やテニスなどにも挑戦したいと思う一方、ベンチの老人のように回想する時間をたっぷりと持ちたいと考えています。
私の記憶の最初を飾るものは、4歳の頃でしょうか、母親はゆったりとしたスカートをはいていて、道で人に出会うとこのスカートにすっぽりと隠れてしまう自分の小さな姿です。こんなナーバスな子どもと現在の私を比べることができるでしょうか。(これを聞いて人は笑ってしまうことでしょう)その変化や落差に自分の人生を「回想する」意義があるのではないでしょうか。
近くの小さな公園の欅や桜はすっかり葉を落とし、人の姿もまばらになりました。最近そのお年寄りの姿が見えないのが気になっています。(水沼文平)