4月の花、桜の開花

4月に入っても、天候が不順で、寒暖の差が大きく、春の花の開花や満開の時期がはっきり読めない。家の前の小学校の桜は、今日(3日)の朝には3分咲きくらい、午後には開花が少し進んだようだ。家の近くのテニスコートで朝テニスをしたが、コート脇の桜も3分咲きで、桜を見ながらのテニスの練習は気分が格別。近所の畑では、先週は咲いていた菜の花がもう刈り取られていた。その近くの道路わきには、橙色のハナビシソウが今年も咲いていた(種が落ちて自然に芽を出し咲くという)。そろそろチューリップの季節。

KODAK Digital Still Camera

追記 今日(4日)は、自転車で大学まで行く途中で、いくつかの桜の開花を確かめた。もう5分咲きくらいのところが多かった。

飛行機の欠航や遅延の補償について

今朝、沖縄諸島には台湾の地震の影響で地震警報が出て、飛行機の運行も一時ストップしたようだ。春休み中でその影響を受けた人もいると思う(うちの娘家族もそう)。生成AIにその時の補償を聞いてみた。チャットGPTよりBingチャトの方が、的確な答えを返してくれた。以下その問答を転載

質問:乗る予定だった飛行機が災害や飛行機の整備不備で飛ばなくて、その日の代替の飛行機も満席で、翌日以降の飛行機に予約を余儀なくされた場合、宿泊のホテル代は飛行機会社が支払ってくれますか?

Bingチャト回答;飛行機の欠航や遅延は、旅行計画に影響を及ぼすことがありますね。以下に、飛行機が欠航した場合の対処法と補償について説明します。欠航の理由による対応:①悪天候など自然災害による欠航―航空会社からの補償はありません。ホテル代や交通費は自己負担となります。他の航空会社の便に振り替えるか、払い戻しを受けることができます。②機材故障など航空会社の責任による欠航:―航空会社は補償を提供します。遅延の場合はレストランで利用できるバウチャー、大幅な遅延や欠航の場合はタクシー代やホテル代が補償されます。振り替え便を探すか、払い戻しを受けることができます。

風の便り 66号

今月も辻秀幸氏より1日に「風の便り」が送られてきた(66号)。今月はチョウの特集で、写真がきれい。チョウの羽は表と裏で模様が違っていると知らなかった。これからは気を付けて表裏を見てみたい。ただこの頃は、昔に比べチョウを見かけることが少なくなったように思う。花が少なくなったせいかもしれない。猫が増え、猫がチョウにチョッカイを出すせいかもしれない。

海女文化の研究

研究者にとって長年の自分の研究が、新聞等で紹介されるのはさぞ嬉しいことであろう。特にそれが、趣味的なものに人には見えるマイナーなテーマであった場合は、なおさらである。今日(3月28日)の朝日新聞朝刊の教育欄に大きく掲載された東京海洋大学の小暮修三氏の記事―『海女文化が導く 持続可能な社会―作られるイメージ奥にあるものを探る』を読んでそのことを思った。

小暮修三氏は、『子どもと学校』(武内編 学文社,2010)の中の「海外子女-子どもと学校と教育のグローバリゼーション」の章を、野崎与志子さんと一緒に書いてくれた。「御宿クラブのお蔭で、腰を落ち着かせて聞き取り調査等が出来ました」というメールをいただいたことがある。知り合いが、このように新聞で大きく取り上げられるのはうれしい。以下新聞記事の一部転載。

<東京海洋大学の小暮修三教授(56)は、海女の存在が社会でどう位置づけられ、イメージを変化させてきたか、文化社会学の観点から研究する。自他ともに認める「海女博士」だ。/最初は大正・昭和前期(1920~40年代)。国内各地で開かれた博覧会で、海女の実演が大変な人気を集めた。「ガラス張りの水槽に潜り、露出の多い服を着て貝を採る。好奇の目にさらされる『見せ物』でした」 第2次ブームは、昭和30年代の映画がきっかけだ。海女が主役の映画が何本も作られた。相次ぐヒットを受け、「『純朴』で『開放的』なイメージが広まり、今につながる海女像が確立された」。第3次は、2009年ごろからの数年間。岩手県久慈市の海女がネットで話題になり、13年には、同県・陸中海岸の「北限の海女」をモデルにしたドラマ「あまちゃん」が社会現象となった。/最初のブームは、大衆の好奇心。第2次は、高度経済成長に伴う観光化。第3次は、疲弊した地域の活性化。/1996年に「勉強し直そう」とニューヨーク州立大大学院バファロー校で教育社会学を学んだ。海女との出合いは、博士論文を書くための資料収集だった。/2009年に東京海洋大の准教授となってから本格的に研究に取り組んだ。文献を読み込み、昔の映画ポスターや雑誌、絵はがきなどの資料を集めた。一方で「現場を知らなければ」と各地を巡り、関係者から話を聞く。/ 「海女文化のありようは、世を覆う強欲資本主義に対するオルタナティブ(代替の選択肢)でもある」と考える。「海女文化の意義を伝えることを通じて、オルタナティブな社会のあり方を提示できたら」と話す。(本山秀樹)>

文献の引用に関して、オリジナリティに関して

学術的な論文の文献の引用に関して、思うことを書き留めておきたい。昔、引用などに詳しい同僚の香川教授が指導学生に、「卒論や修論を書く際に、引用は学術書から行うもので、新書本から引用してはいけない」といっているのを聞いて、その理由を聞いたことがある。

「新書本は一般向けに易しく書かれてものである。引用は新書の元になったオリジナルの論文や書籍から行うべきものである」という説明で、納得した。新書がオリジナルな最初の発表内容の場合も(稀に)あるので、新書の引用は絶対にいけないとはいえないと思うが、オリジナルを尊重するということの重要性は納得した。今は論文でも、新聞やネットからの引用を目にすることがあるが、これはオリジナリティは薄いし、極力避けるべきであろう。ウキペディや生成AIの回答は引用には向かない。

 自然科学だけでなく、人文や社会科学においてもオリジナリティに関しては尊重されなければならないと思う。私も昔自分の専門分野のことで1つのオリジナルな考えを思いついたと感じた時、それを執筆して公開する前に誰かに同じことを先に書かれてしまったらどうしようと思い、関連の論文や書籍が発刊される度にハラハラして、真っ先にそれを確かめたことがある。 

 そのことに関連して残念に思うのは、その私の書いたオリジナルな見方を引用で書いてくれる人(A氏)がいても(引用なしで自分の考えのように書く人は論外)、その人の論文や本を読んだ人(B氏)が、引用文献にそのA氏の論文や本を記載し、元の私の文献が無視されたことがある。そのようなことはその後も続いた。A氏が有名な人ということがあり、またオリジナルを探すのは大変で、私も同様のことをしているかもしれず、お互い様なのかもしれないが、最初にそれを言った(書いた)のは誰なのかを、正確に引用するのは、学問をする人の(引用をする人の)礼儀(倫理)だと思う。(私はそのことで感謝されたことがある。その先生も悔しい思いをしていたのだなと感じた)したがって、研究者たるものそのことを知った新聞やWEB記事から引用することは避け、その説(見方)のオリジナルはどこにあるのかを、学術的な文献から探し、それを記すのが務めてあろう。(このブログの文章は、学術的なものでないので、その点はスルーして、出自に関してはかなりいい加減なところがあると思っている。論文の引用に適さないのは確か。)