優れた本や論文の継承について

作田啓一の著書を私に教えてくれたのは、大学院の先輩の高橋均さんである。私がM1の時、高橋さんはD3で、D1の近藤純夫さんと二人で社会化論の読書会をしていて、私を加えて下さった。その時のテキストが作田啓一の『価値の社会学』に後に収録される論文であった。読書会では、作田啓一の文章を一字一句その意味を考えながら読むというものであった。人の心理をこのように社会的なことや文化的なことと結び付けて、しかも論理的に論じることができるものなのかと驚いた。そして、それで私はすっかり作田ファンになった。
忘れていたが、私は助手の頃、教育社会学コースに進学してきた学部の3年生に、作田啓一の論文や本を紹介したことがあったようだ。優れた若者論の著作のたくさんある渡部真氏(横浜国立大学教授)より、下記のメールをいただいた。(ご了解を得て、一部転載させていただく)

<武内先生のブログを拝見しております。(中略)中でも12月29日の「作田啓一(氏)のこと(その2)」は非常に興味深く読ませていただきました。私も作田先生には面識がなく、井上先生には一度お目にかかっただけですが、お二人とも「顔の見える社会学者」ということで大変に尊敬しております。
もう40年以上前になってしまいますが、武内先生が東大の助手をされていたころ、少人数の読書会をひらいてくださり、その時あつかわれたのが作田先生の「価値の社会学」という御本と井上先生の青年文化についての論文でした。 今にして思いますと、あの武内先生主催の読書会は4年間の学生生活の中で、もっとも強い知的刺激を受けた時間でした。
特に井上先生の論文は、青年文化を「聖と遊びへの離脱」「俗生活への批判」として捉えた画期的なものでした。私も青年のことを考える時には、今でも、たちかえる論文です。
井上先生もお元気でおすごしとのこと、とてもうれしく思います。>

このように優れた論文や本は、時代を超えて受け継がれていくのであろう。
ただ、現代の大学の授業を考えると、あまり本や論文を学生に紹介しても関心を持ってもらえず、それよりアクティブに作業したり、討論したり発表したりすることが奨励され、それが学生の関心も高める方法となっている。読書という伝統的な方法による文化の継承が難しくなっている。

新年のご挨拶

謹賀新年
昨年はお世話になりました。
今年もよろしくお願い致します。
皆様のご多幸をお祈りします。
2017年(平成29年)元旦
武内 清

年末の夕日-稲毛海岸

日が沈むのを見に行きたくなる時がある。冬の年末の夕暮れは冷え込み寒く、散歩にはあまり適していないが、空気が澄んでいて、日の入りがくっきり見える。
今日(12月30日)も穏やかな日で、同じように夕日を見に来ている人が、稲毛海岸にも多く見られた。駐車場も年末年始は無料開放なのはうれしい。
ソフィーもこのところ海岸散歩続きでうれしそうに跳びはねていた。

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作田啓一(氏)のこと(その2)

このブログを思わぬ人が見てくださり、お便り下さることがある。
今回は、2016年3月18日のブログ(「作田啓一」(氏)のこと)を読んでくださり、作田啓一*に関して、「想い出」の文章を、送ってくださった方がいる。(*私は作田啓一(氏)を学問の師と仰ぐ気持ちを持っているが、著作を読んだことがあるだけで、教えを受けたわけでもないので、先生という敬称を付けることができない)

その方は、高名な社会学者の井上俊先生(大阪大学名誉教授)である。
井上俊先生は、京大時代の作田啓一に学び、作田啓一とも多くの本を書かれてい る方である。単独の著作も多くあるが、作田啓一の影響のあった若い頃書れた『死にがいの喪失』(筑摩書房)が一番印象に残っている。
井上俊先生の講演を、私は日本教育社会学会や日本社会学会の大会で聞かせていただいたことがあるが、面識はない。その高名な先生が、私のブログを読んで、わざわざお手紙を下さり、作田啓一に関する想い出の文章を送ってくださったのであるから、感激でである。
その内容は、作田啓一の映画好きや、私の知らなかった著作( 『現実界の探偵』白水社、2012年等)のこと、また学生への指導の様子も書かれていて、感激した。

まったく面識のない人が、共通の「知り合い」を媒介に、コミニケーションできるというのは、不思議でる。深く御礼申し上げるとともに、井上俊先生の文章を掲載させていただく。

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