質問
「大学の授業は、卒論や卒業研究の為にあり、それに役立たない授業には出る必要がないと考えられた時代もある。大学の教員が学生の出席を取るのは野暮とされた大学もあった(京都大学)。卒論や卒業研究こそ、大学教育の集大成といえる。自分でテーマを決め、資料を探し、調査や実験をしてデータを集め、オリジナルな論稿を執筆する。」-この意見に関してどう思いますか? また大学の授業にほとんど出なかったという有名人は、村上春樹はじめたくさんいるように思います、大学の授業は、その後の人生に役立つのでしょうか?
ChatGPTの回答
非常に興味深いご質問ですね。以下、いくつかの観点から整理してお答えいたします。/ 1. 卒論や卒業研究は大学教育の集大成か?―基本的にはその通りです。大学教育の目的の一つは、「自分で問いを立て、自律的に調査し、論理的な結論を導き、社会に向けて発信する力」を育てることです。卒論・卒業研究は、それまでに蓄積してきた知識・技能・思考を統合して形にする場であり、教育成果の可視化でもあります。ただし、専門によっては卒業論文の代わりにポートフォリオや作品(芸術系)、実習やインターン(教育・看護・福祉系)などが中心になる場合もあり、「卒論が全て」とは一概に言えない点には注意が必要です。/ 2. 「役に立たない授業には出なくていい」という考えは妥当か? これは古くからある議論です。「主体的な学び」を重視する立場からは、「受動的な座学」や「学生のニーズと乖離した授業」は時間の無駄という意見も理解できます。ただし、「そのときには役に立たないと思っていた知識が、後になって意味を持つ」ということも多く、知識の受容には「タイムラグ」があります。若い時期に多様な知見に触れておくことは、人生や職業選択の幅を広げるという意味で価値があるとも言えます。/ 3. 京都大学では出席を取るのが「野暮」とされたのか? これは事実として一定の根拠があります。京都大学は、戦前から「自由の学風」を誇りにしており、授業への出席を義務化せず、学生の自主性に任せるという文化が強かった大学の一つです。とくに1960~70年代には、「出席を取るのは学生を管理することであり、学問の自由に反する」という意識が、教員側にも学生側にもあったようです。実際、「教員が出席を取ったらブーイングが起こった」という逸話も残っています。もちろん、現代の京大では全ての授業で出席を取らないわけではなく、科目や教員によって異なります。ただ、こうした「自主性重視」の伝統は現在もある程度生きていると言えます。/ 4. 大学の授業にほとんど出なかった有名人たち(例:村上春樹)はどう評価すべきか? 確かに、村上春樹氏は早稲田大学在学中、「授業にはほとんど出なかった」と述懐しています。彼は映画館通いやジャズ喫茶経営にのめり込み、そこでの経験が小説世界に大きく影響を与えました。また、他にも大学にあまり通わなかった有名人(例えば養老孟司氏、ビートたけし氏など)もいますが、彼らは「大学の外で自ら学び、自分なりの知見を獲得した」タイプの人間です。つまり、「授業に出なかった=成功した」わけではなく、「授業以外の場で自分の頭で考え、行動した」という点が重要です。/ 5. 大学の授業は人生に役立つのか? これは以下のように分けて考えると良いでしょう:① 直接的な役立ち:資格取得、専門知識、職業スキルなど。医療・法学・工学などでは顕著。② 間接的な役立ち:論理的思考力、調査力、多様な価値観の理解など。人生の選択肢や思考の広がりに貢献。③ 無意識的な影響:大学時代に触れた本や議論、人間関係が、後の人生に影響することも多い。/ 大学の授業そのものが役に立ったかどうかは、すぐには判断しづらいことが多いです。ただ、「学ぶ姿勢」や「考える習慣」を身につけることは、長期的には大きな財産になります。/ 結論:①卒論・卒業研究は大学教育の集大成である。②授業は必ずしもすべてが「直接役に立つ」わけではないが、人生にとって意味のある土台になる。③出席を取る/取らないは、大学や時代背景によるが、京都大学のような「自由の学風」も実在した。④ 授業に出なかった有名人も、自分なりの方法で学び続けた人たちである。