英語の民間試験の比較

大学入試の英語試験の改変に関しては、昨年の9月22日のブログにその混迷の様子を紹介したが、その混迷はそれから半年経った現在も続いているようだ。

3月25日の朝日新聞の朝刊には、『「CEFR」 英語の民間試験の比較に活用―理念抜きに「尺度」独り歩き懸念』という題で、京都大学で開かれたシンポジウムでの様子が報じられている。「異なる試験間の比較は砂上の楼閣。軟弱基盤の上の辺野古基地のようなもの」というたとえが冴えている。学問は政治利用されるものであるが、時の政府の政策に都合悪くなると切り捨てられるものであることがわかる。(新聞記事を下記に転載)

敬愛大学の卒業式2次会に出席

3月23日に敬愛大学の卒業式があり、その後のこども学科の2次会に参加した。

私が教えたのは1年次(教育原論Ⅰ、同Ⅱ、1年ゼミ)と2年次(教職概論、地域社会と教育、2年ゼミ)だけだが、授業は必修だったので、学科の100名の学生ほとんど顔見知りで、その学生諸君が晴れて卒業というのは、わが子(孫?)のようにうれしく感じた。そのうち30名は今年度の教員採用試験に受かり、それ以外の学生も小学校に講師として採用されたものが多く(一般企業就職も3分の1程度いる)、皆前途に希望を抱えての卒業である。この前会った2年前より皆立派になり、大学時代の大きな成長を感じた。

敬愛の学生の大学内外での学びの様子、成長の過程は、教員採用試験合格体験記の記述などからも伺える。そのいくつかを、「教職の里程」2019 23号から転載する(下記).

学修の自己評価について

教育において自己評価ということを言われて久しいが、その意味(価値)についてこれまでほとんどわからず、最近になって少し学習したことがあるので、書き留めておきたい。

私はこれまで評価というものは、自分の外の基準で行うもので(外部評価)、自分で評価するなどというのは主観的で客観性がないし意味がないと思っていた。これまで評価といえばほとんど外部評価である。大学でいえば、大学ランキングというものがあり、偏差値、就職率、科研費の額、有名人輩出率など、外部の基準で判定してランキングが作られている(ただ、大学生活の満足度などは、学生の自己評価によるものなので、自己評価といえなくはない。)。高校でいえば、偏差値や有名大学進学率、スポーツの実績などの外部基準でランキングされている。                           公立の小中学校には、全国学力調査があり、都道府県別だけでなく、各学校の学力平均が算出されている。これら、皆外部の基準での評価であり、自己評価ではない。

先日、植草学園大学のFD研修会に参加して、関西国際大学学長の濵名篤氏の話を聞く機会があった。その講演のテーマは「学修成果の可視化と質保証」というもので、自己評価を含んだ定性的評価(質的評価)の話であった。そこでは、ルーブリックや学修ポートフォリオ等を使って、大学や学生がどこまで学修したのかを自己評価することの重要性が強調されていた。確かに、大学生たちは試験やレポートの評価が優良可不可(4321)などで付けられ、そのような外部的な点数だけでは、自分がどのような点が学修できてどのような点が学修できていないのかはわからない。その点、ルーブリックや学修ポートフォリオは、自分の学修を自分で評価するものあり、自分の優秀性や劣っている点を、自分で具体的に知ることができるものである。この意味で、学修の自己評価というものは、外部評価より優れているかもしれないと思った。

( また濵名氏は、大学には「リフレッション・デイ」が必要と提案している。それは「各学期の試験やレポ―十等を返却することにより、最終的にはどのように評価されていたかを明確にし、自分の学習成果を確認し整理することにより、自分の得意な点や不得意な点を明確にして、次の目標設定につなげてゆく取り組み」である。確かに、大学でも試験答案やレポートの返却して、学生の学修できた点や出来なかった点を具体的に示せば、学生に対する効果は大きいであろう。これは、多分アメリカの大学ではやっていることである。ただ、これを日本でやるためには、日本の大学の授業のシステム(授業の多くを非常勤に頼っている等も含め)をかなり変えなければならないであろう。

趣味

世の中には、自分の趣味で、コツコツ楽しんでいる人がいる。最近、昔の知り合いから趣味で作った冊子をいただき感心した。それはガラケーについているカメラで撮った昆虫の写真をパソコンに取り込み、それを編集して小冊子にしたというものある。蟲の写真もきれいで、構成も、文章もよい。かなり時間をかけて作ったものだと思うが、印刷は数冊で自分用と親しい友人に配布しただけだという。1冊いただいた。了解を得て、ここに転載させていただく。

私が大学3~4年生の頃、近くの図書館で開かれていた鑿壁読書会でご一緒した方で、40年ぶりにお会いして旧交を温めた。若い時の知り合いはありがたいもので、40年の隔たりは一気に飛び、普段会っている知人のような感じで話が弾んだ。

金銭観のこと


お金のことを話題にするのははしたないという文化が日本にはあると思う。講演の謝礼も、金額は明示されず、講演が終わってから渡され、そこではじめてその額を知る。原稿料もそうである。お坊さんへの礼やお布施も金額を聞くのははばかられ、適当に包んで渡す。

また、人それぞれ金銭感覚が違う。金銭(収入等)にこだわる人もいれば無頓着な人もいる。日頃の消費の額も、人により(あるいは世帯により)違う。1日の食事代も人や世帯によって違うのであろう。たとえば、お昼に500円のお弁当を買って食べることをつつましい(貧乏くさい)と感じる人もいれば、贅沢と感じる人もいるであろう。飲み会の会費が4000円だと安いと感じるのか高いと感じるのかは、人により違う。

私は戦後の貧しい時代に平均的な家庭に育った(つまり貧しかった)ように思う。父が中小企業のサラリーマンで祖母や母が内職をしてやっと生計が成り立っていた。つつましい生活だったように思う。家族で旅行に行くこともなかったし(そのような余裕はなかったのであろう)、外食をすることもなかった。そのような育ちから学んだことは、人は一生懸命働き衣食住が不自由なければいいということである。それで、金銭への執着もないと自分では思っている。高級住宅地、豪華な家、高級車、グリーン車、高級レストラン、ブランド服等に関心がない。(人はこれを評して「お里が知れる」とか「貧乏人根性」というかもしれない。*)

今、人と会って飲食をともにするような時、どのくらいの金額のところが適切なのか迷う時がある。働いていた時は、多少の高額でも気にならならなかい人が多かったように思うが、周囲が定年退職者ばかりになると、多くの人は費用(金額)のことが気になり出す(常勤で働いている人にはそれがわからないであろう)。お金のことを表に出すのははしたないという意識(文化)があるので、一層気を遣う(誰が払うべきなのか、割り勘にすべきかどうかということも含めて)。

*有島一郎だったか太宰治だったか忘れたが、自分の生家が金持ちの家であることを恥じたということを読んだことがあるが、私の場合はそれとは違い、自分の育ちが貧しかったが(ので?)、それを恥じるということはなかったということである。社会学を生業とするものは、貧者や弱者の味方になって論じるのが当たり前なので、困ることはない。リッチな生活を送り、貧者の味方のような論を展開する研究者は信用されないであろう。ただ、努力して社会的に認められること目指すことは否定されるべきでない。大学の教師でベンツに乗っている人はほとんどいないのではないか。大学教師で偉ぶっている人に会ったことはない.