軽井沢について

夏の避暑地というと軽井沢を筆頭にあげることができるであろう。軽井沢には他の避暑地とは何か違う格式や伝統や品がある。また新しさもある。植わっている木々にも上品さを感じる。旧軽に建つ古くからの木造の建物、手入れの行き届いたコケの生した庭、あるいは贅沢を尽くした新築の別荘など、日常の生活とかけ離れた非日常の世界がそこはある。日本にもこんな贅沢な生活を送っている人がいるのだと、傍を通るだけでため息が出る。。

日本には上流階級が存在するあるいは日本は階級社会だと実感することが軽井沢に来ると感じることができる。同時にプリンスのアウトレットやハルニレテラスなどで最新の流行も味わうことができる。

私は上智大学在職中に、夏にはゼミ生と大学の上智軽井沢セミナーハウスに宿泊し、ゼミの合宿を開き、皆で広いゴルフ場の傍の道を自転車で通り、旧軽まで行き、別荘地を散策し、日本の階級社会の存在を実感した。上智の学生に軽井沢はよく似合う。軽井沢に親が別荘を持っている学生もいた。

軽井沢はセレブ的な嫌味はありながら、そのよさは拝金や成金的なところにはない。セレブがそのセンスや趣味のよさをさりげなく示し、それが自然や建築に現れているよさである。(そのよさについては、例えば、ソフィアート・ガーデン物語www.sophiart.co.jp/messay2012000.htm 参照されたい)

ただ、経済的な豊かさがあっての軽井沢であることは確かである。日本の経済が停滞している現在、軽井沢の勢いや輝きが失われていることは確かである。軽井沢への憧れはもうなくなっているのかもしれない。軽井沢の別荘族の年寄りらの姿は寂しげであり、若者の表情にすがすがしさは感じられない。。

追記ー1日前に雄大な浅間山の姿を間近に見たばかりだが、その浅間山が噴火したというニュースを聞いてびっくりした。大したことにならないことを祈る。

涼しさを求めて高原へ

涼しさ求めて苗場(高原)に行く。標高千メートルのところだが、昼間で日差しの強いところは暑い。日陰に入ると涼しく感じる。夜は風が心地よい。夏の緑は濃い。フジロックも終わった平日の苗場は人が少ない。ボードウオークも人影がない。宿泊のホテルや民宿に部活の中高生をちらほら見る程度。周辺にはなかなかいい温泉があり、今回は、猿ヶ京の「まんてん星の湯」(https://www.mantenboshinoyu.com/)と、歴史のある奥湯沢の「貝掛温泉」(www.kaikake.jp/)に入る。お昼は、1回石打にあるへぎそばの中野屋・塩沢店https://retty.me/area/PRE15/ARE500/SUB50004/100000831063/menu/の天ざるで舌鼓を打つ。帰りは、軽井沢を経由して帰る(雄大な浅間山を見、白糸の滝を見学、旧軽も少し見学)

夏の暑さ、その対策について

このところ連日、30度を超える暑い日が続いているが、皆この暑さにどのような対策をたてているのであろうか。私の幼少年期は家にエアコンはもちろんなく、夏休みは涼しい朝晩に少し勉強し、後は友達と暑い中、外で昆虫取りや草野球をして過ごしていたように思う。遊ぶ分には夏の暑さはあまり苦にならなかった印象がある。夜は蚊対策で蚊帳の中で寝て、暑さの記憶はあまりない。昔は今ほど暑くなかったのかもしれない(場所は市川市中山)。

今私の書斎のクーラーが壊れていて、これを書いているところの温度は35度。扇風機をかけていても暑い。
うちでは寝室のエアコンも壊れているので、今日も犬の為にエアコンをかけているリビングに布団を持ってきて寝る予定(「なんという悲惨な、気の毒な家なんだ!」と、人から言われそう)、。

私は今日の午前中は、庭の芝刈りをしたあと、近くの体育館で卓球愛好会の練習に1時間参加した(2時間のところ1時間で切り上げた)。どちらもかなり暑く(芝刈りは炎天下、卓球は冷房のない外の風も入れない密封の体育館)、多くの汗をかいた(水分もかなり補給したが)。夕方は、これから家族で幕張の海の千葉市花火大会を見に行く予定。.ここも人が多く、暑いかもしれない.

 
私の年齢を考えると、明日からは、どこか涼しいところに行くことにした方がいいかもしれない。

<追記 >海浜幕張の花火大会へは、家を車で出たのが午後7時15分(花火開始は午後7時30分)。車で15分。海の傍の駐車場は混んでいて、かなり離れたショップの駐車場に車を停め、15分ほど歩き花火会場へ。かなり遠くからだが、波打ち際で花火を見た。海風が涼しく、花火も綺麗であった。帰りにショップ内のインドカレーを食べる。美味しかった。暑かったが、夏を満喫した1日であった。

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道徳・倫理項目の国際比較を


いま日韓の政治関係が悪化している。日本人から見ると、韓国側の言い分が理にかなっていないように思える(例えば、一度約束して決めたことを簡単に反故にするなんて)。逆に韓国人から見ると、日本側の言い分が理にかなっていないと思えているのであろう。

日常的な道徳や倫理項目に関して、国による認識の違いがあるのではないか。国を超えて共通に認識されている普遍的な道徳・倫理項目ももちろんたくさんあると思うが、関係が悪化した時は、違いの方に着目し、相手の立場に立って考えてみる必要があるように思う。。

日本の学校教育の道徳の時間に教えられる道徳項目(4領域)は、普遍的で他の国にも通用するような項目が上がっていると思ってしまうが(www.u-gakugei.ac.jp/~kokoro/komoku/index.html)、他の国の人から見たらどうなのであろうか。特に韓国の人から見たらどう見えるのであろうか。また、韓国や他の国の道徳項目としては何が挙げられ、何が特に強調して教えられているのであろうか(このような、道徳教育の国際比較は、研究が既にあると思うが)

少し前、また今でも韓国のテレビドラマのブームが日本であり、日本人でそれを見ている人は多いはずだが、韓国のテレビドラマで描かれている(あるいはその底流に流れている)道徳観・倫理感は、どのようなものなのであろうか。                                         日本人は、それに惹かれたり逆に違和感を感じるという部分は何なのであろうか。                                     一時大変なブームになった「冬のソナタ」で、日本人は韓国の何に魅力を感じたのであろうか、逆に何か倫理的に違和感を感じた部分はなかったのであろうか。                                   (ヒロインのユジンが幼馴染のサンヒョクとの婚約を破棄してチュサンに走るのは、普遍的なことかもしれないが、特に魅力を感じたり、逆に倫理的に何か違和感を感じたということはなかったのであろうか?)

政治的に日韓関係が悪化しても、還流ブームを経てきている日本人は、韓国人の人間性にマイナスイメージを持つことはそれほどないと思うが、国民性の違いを冷静に知ることは必要なことのように思う。

当たり前を疑うー教科の分類について

私は哲学に関しては全く無知であるが、当たり前だと思っていたことを疑ってみることは楽しい。それは、山本雄二氏が次のようなことを書いていたことに通じる。

つまり鬼の角が1本か2本かをめぐって激し論争があった場合、そのどちらに組するのではなく、その前にその二つの立場が共通に前提にしていること、すなわち「鬼は本当に存在するのか」ということを考える必要がある。

現在教育界では「教科横断的な教育課程の編成」が盛んに議論されている。上智大学名誉教授の加藤幸次先生も『教科等横断的な教育課程の編成の考え方・進め方』(黎明書房、2019.6)という優れた本(添付)を出版され、議論を巻き起こしている。加藤先生から既存の教科の分類は、1つの分け方に過ぎないということも教えていただいた。

私たちが当たり前と思っている学校の教科―国語、算数、理科、社会、英語、保健・体育、芸術(音楽・美術・書道)、技術・家庭-は、いつの時代から、どのような根拠に基づいて分類され、学校現場に定着したのであろうか。それは、時代とともに変遷してきたのであろうか。また、諸外国も同じような教科分類を使っているのであろうか。(日本の場合、明治維新や戦後に、欧米の影響がかなりあったことが考えられる)

また学問の各分野の内容は、大学から高校以下に降ろされて当然と思うが、日本の教科の実際を見てみると、大学と高校・中学・小学校の間には大きな断絶がある。                                                                   国語、算数(数学)、理科、社会(地理、歴史、政治、経済)、英語、体育、音楽、美術、家庭、技術、情報などは、小中高の科目にあり、比較的大学の科目の中にも存在するが、哲学、人類学、民俗学、社会学、心理学、教育学などは、大学ではじめて設けられる科目であり、小中高と大で断絶がある。なぜ、このようなことがおこるのか。諸外国はどうなのか。(もしかしたら、このようなことは既に研究され、論文や本を出版されているのかもしれない。これから調べるつもり)

追記;大学入試問題に詳しいI氏より、下記のコメントをいただいた。

高校にあって、大学にない科目は、「現代文」と「世界史」です。 「現代文」はさまざまなジャンル(学問分野)の文章が出てきますが、それぞれの学問分野を扱っているわけではなく、その結果、大学入試では出題委員に任命された大学教員が、好き勝手に(?)自分の専門分野(あるいは単に最近読んだ本)からかなり無造作に出題している印象。 「世界史」(world history)は AP なども科目にもあったりはしますが、大学では西洋史/東洋史、さらに細かく分かれるのが普通で、一人の教員が、古代から現代まで、全世界全部教えるという無茶苦茶な科目は大学にはありません(高校世界史でも、本当に全時代全地域均等に扱っているわけではないですが)。 哲学・心理学・社会学の入門的内容は、高校公民の「現代社会」「倫理」にうっすら入っています。 センター試験現代社会で「フランクフルト学派」が普通に出ていたりします。 高校の「簿記会計」や「政治経済」は、社会科学系学部の大学生は、大学でコッテリやるはずですが、高校では未習なことが多い (「簿記会計」はそもそも高校の普通科ではなく、商業科でしか開講されていない)。 諸外国は、 IB(バカロレア) https://www.ryugaku-voice.com/genre/children/us-mm_ibsubjects.html AP(advanced placement test:高校カリキュラムと連動しているものと、独立して試験のみのもの、とがあったはず) https://apstudents.collegeboard.org/course-index-page CLEP(試験による大学基礎科目の単位先取り(大学が認めている場合のみ)。高校生でも受験可能) https://clep.collegeboard.org/exams の各科目を見てみると宜しいかと。