オリンピックの感想(その2)

オリンピックに関して、ネットニュースや新聞記事で、感心した部分を、抜き書きしておく。

1   8日夜に行われた東京五輪の閉会式は〈つまんない〉の声しきりだった。/ 公園でダンスとかダブルダッチとかジャグリングとか〈そんなの普段の東京で見たことないよ〉とツッコミを入れたくなりましたね。BMXとか五輪アスリートのもっと凄い競技を堪能した後にあれを見せられても、選手も視聴者も楽しめたとは……」/「坂本九の『上を向いて歩こう』からアニメ『鬼滅の刃』の主題歌『紅蓮華』、そしてDJ松永が登場したと思ったら、続いてシンガーソングライターのmiletが『愛の讃歌』を熱唱。シャンソンを歌ったのは次回開催国がフランスだからかもしれませんが、若者に迎合しようとして支離滅裂というか、学園祭みたいなノリだった。シメに大竹しのぶを持ってきたのも〈彼女なら文句は出ないだろう〉という思惑がミエミエで、あの閉会式で世界に響くかといえば疑問ですし、本当にプロの演出なのかと気恥ずかしくなりました/「これまで何度も五輪の開閉会式を見てきましたが、コロナ禍ということを差し引いても、東京五輪の閉会式が過去最低です。今回の閉会式の中で一番内容が良かったのは、次回パリ五輪の紹介映像だった。/ IOCのバッハ会長は閉会式のあいさつで「(東京五輪は)希望と連帯と平和のオリンピック」「私たちはやり遂げた」などと得意げだったが、一体、何をやり遂げたというのか.

2 「内輪に閉じた東京2020五輪 世界へ開かれた1964、夢見る時代錯誤」(小熊英二、朝日新聞 8月10日)― 東京五輪が閉幕した。1964年の東京五輪との対比で、今回の五輪を歴史的に考えたい。/読売新聞2011年3月21日掲載の世論調査では、「昭和の時代を象徴すると思う出来事」の1位は「東京オリンピック」だった。2位は「原爆投下」、3位は「バブル景気」。4位は「石油ショック」、5位は「真珠湾攻撃、対米戦始まる」だ。 なぜ64年東京五輪は、これほど印象が大きいのか。それはこの五輪が、日本の国際社会復帰を象徴していたからだ。/日本にとって64年は、戦争で途絶したヒト・モノ・カネの国際移動がようやく修復された年だった。戦争で破壊された生活もやっと復興し、人々の気持ちも未来を向き、外に開かれようとしていた。/ 今回の東京五輪は、こうした64年の栄光を夢みて招致された。だが64年と21年では時代も社会状況も違う。五輪そのものも商業主義的になった。/ そのうえ今回の五輪では、関係者の「内輪の論理」が失態を招く事例が目についた。/ 64年の東京五輪は、日本が未来をめざし、外に開かれた瞬間として記憶された。21年の東京五輪は、過去を夢みて始まり、「内輪の論理」が現代に通用しないことを露呈させた。ここから何を学び、未来にどう活(い)かしていくか。それを考えることが「TOKYO2020」の本当の遺産となるはずだ。

3 「ウソにまみれた五輪」 感動の消費で終わらないために (池澤夏樹. 朝日新聞  8月9日 )- 今回の東京五輪全体を総括すれば、あまりにもウソが多かった五輪ということになるかと思います。 招致段階で、当時の安倍晋三首相は、東京電力福島第一原発事故について「状況はコントロールされている」と発言しました。原子炉建屋内にはメルトダウンした核燃料が取り出せないままで汚染水も日々たまっているなど、事故が今も収束していないのは周知の事実です。 当初盛んに言われていた「復興五輪」もウソ。結果として、東北復興とは何の関係もない五輪でした。 招致委員会が提出した立候補ファイルでは、開催時期の東京の気候が「温暖でアスリートが最高の状態でパフォーマンスを発揮できる理想的な気候」とうたっていました。 8月の日本は、北海道も含め、どこも暑いことを、僕たちは知っています。大会開催中、テニスのジョコビッチら、選手からは異常な暑さに怒りの声が上がりました。 最大のウソは、日本政府が、「国民の命と安全を最優先する」と言い張り、五輪開催に伴う新型コロナ感染拡大のリスクを無視し、開催を強行したことです。 五輪はスポーツの祭典、お祭りです。お祭りならば、人々は外に出て騒ぐのが当然です。一方で政府は、コロナの感染が拡大しているからと無観客での開催を決め、外に出歩かずに、競技はテレビで見てと呼びかけました。 相反する行動が求められることを、同時に実施してしまった。これが最大のウソです。 こうしたウソに対する疑問に、政府やIOC(国際オリンピック委員会)はまともに答えることをせず、ウソを広げ、「やった者勝ち」に持ち込んだ。マスコミも国民もみんな、なめられていたのです。 近年の日本政治の劣化は著しいですが、それが具体化して表れ出たのが東京五輪だったと言えるでしょう。こんなに突っ込みどころ満載の五輪も、過去にはなかったと思いますが、閉幕した後、政府や与党は「楽しいお祭りでしたね。このお祭りをつくったのは我々です」という顔をして、衆院解散・総選挙に臨むのでしょう。/ かつてないウソと矛盾に満ちた東京五輪が終わりました。ただ今回は、そこにくさびを打たなくてはならない。「感動した、開催してよかった」と、いつものように感動を消費して次の五輪に思いをはせて終わるのではなく、数々のウソや矛盾で成り立っている五輪に対し、僕たちは想像力を働かせる必要が、今回ばかりはあるのではと思います。/五輪が終わった後、新型コロナの感染拡大も含め、そのツケがどんどん出てくることを、僕たちは覚悟しなければなりません。/ 五輪は、開催国に過重な負担を強いる一方、IOCや放映権がある米国のテレビは、巨額の利権を手に入れられる「ぼったくり」構造であることが、今回の五輪で改めて知られることになりました。/五輪を招致しようとしている都市や国に対し、「招致しても良いことばかりじゃないですよ」と伝える責務があります./この夏の東京五輪を経験した僕としては、「五輪招致なんてもうやめて、静かに暮らしましょうよ」と言いたいです。

オリンピックの感想

オリンピックをテレビで観ての感想は、概ね今日(9日)の朝日新聞朝刊の「社説」に書かれていることと近似している。それだけ、私の感覚が「常識」的だということで、取り立てて何か言うべきことがない。

ただ、行事(イベント)やスポーツには、偶然ということがはたらき、それが成功か失敗かを決めること少なくないと感じた。一番ラッキーだったのは、天候のように思う。オリンピック開催期間中に3つの台風が来たが、進路が少し逸れたり、列島を直撃する時間が、開催時間の少し前後にずれたりして、無事開催されたものも多い。サッカーや野球やマラソンや閉会式が、天候を気にせず行われた。。サーフィンは、台風のお陰で外房の上総一宮の海に波が立ってよかった。また野球は、日本にラッキー場面があり、勝てたと思う。アンラッキーなのは、サッカーの得点が入らなかったことと、新型コロナの感染が治まらなかったことであろう。アンラッキーに関しては、偶然というよりは、必然という見方も多いと思う。 

(朝日新聞の社説を一部転載)「東京五輪閉幕 混迷の祭典 再生めざす機に」 

東京五輪が終わった。新型コロナが世界で猛威をふるい、人々の生命が危機に瀕するなかで強行され、観客の声援も、選手・関係者と市民との交流も封じられるという、過去に例を見ない大会だった。この「平和の祭典」が社会に突きつけたものは何か。明らかになった多くのごまかしや飾りをはぎ取った後に何が残り、そこにどんな意義と未来を見いだすことができるのか。異形な五輪の閉幕は、それを考える旅の始まりでもある。/ 万全の注意を払えば大会自体は大過なく運営できるかもしれない。だが国民の健康を「賭け」の対象にすることは許されない。/ 「賭け」は行われ、状況はより深刻になっている。 懸念された感染爆発が起き、首都圏を中心に病床は逼迫(ひっぱく)し、緊急でない手術や一般診療の抑制が求められるなど、医療崩壊寸前というべき事態に至った。/ 市民に行動抑制や営業の自粛を求める一方で、世界から人を招いて巨大イベントを開くという矛盾した行いが、現下の危機と無縁であるはずがない。/ これまでも大会日程から逆算して緊急事態宣言の期間を決めるなど、五輪優先・五輪ありきの姿勢が施策をゆがめてきた。/ 不都合な事実にも向き合い、過ちを率直に反省し、ともに正しい解を探ろうという姿勢を欠く為政者の声を、国民は受け入れなくなり、感染対策は手詰まり状態に陥っている。/ そして今回の五輪の強行開催によって、社会には深い不信と分断が刻まれた。/ 今回の大会は五輪そのものへの疑念もあぶり出した。/ 過去最多の33競技339種目が実施され、肥大化は極限に達した。/ 式典の見直しなどが模索されたが実を結ばず、酷暑の季節を避ける案も早々に退けられた。背景に、放映権料でIOCを支える米テレビ局やスポンサーである巨大資本の意向があることを、多くの国民は知った。 財政負担をはじめとする様々なリスクを開催地に押しつけ、IOCは損失をかぶらない一方的な開催契約や、自分たちの営利や都合を全てに優先させる独善ぶりも、日本にとどまらず世界周知のものとなった。/ 一方で、本来のオリンピズムを体現したアスリートたちの健闘には、開催の是非を離れて心からの拍手を送りたい。 極限に挑み、ライバルをたたえ、周囲に感謝する姿は、多くの共感を呼び、スポーツの力を改めて強く印象づけた。迫害・差別を乗り越えて参加した難民や性的少数者のプレーは、問題を可視化させ、一人ひとりの人権が守られる世界を築くことの大切さを、人々に訴えた。/ 選手の心の健康の維持にもかつてない注目が集まった。過度な重圧から解放するために、国を背負って戦うという旧態依然とした五輪観と決別する必要がある。/ 強行開催を通じて浮かび上がった課題に真摯(しんし)に向き合い、制御不能になりつつある五輪というシステムの抜本改革につなげる。難しい道のりだが、それを実現させることが東京大会の真のレガシー(遺産)となる。