オリンピック観戦の仕方

私は小さい頃から運動が苦手で、運動(スポーツ)も学校の体育の時間しかやったことがなく(それも苦手で休みたいとばかり思っていた)、大人になってから健康の為にテニスや卓球を少しやる程度で、テレビでもスポーツ観戦はほとんどしない。したがって私は、スポーツを観戦する仕方というのがよくわからない。他の人は、どのような仕方で、スポーツを観戦しているのであろうか。

今テレビを付けるといろいろなチャンネルでオリンピック競技をやっているので、つい観てしまう。でも何故かとても疲れる。その理由を考えると、どちらかの(つまり日本の)個人やチームを応援して観戦するからではないのかとも思う。

普段たまに、野球の試合などをテレビで観ることがあるが、特に応援しているチームがあるわけではないので、中立的な立場で野球というゲームを見て楽しむことができる。野球はピツチャの投げる球、1球ごとに有利不利が変わり、ゲームの楽しさを味わうことができる。

オリンピックとなると、知らない選手ばかりなので、日本人や日本のチームを応援して観ることになるが(別に愛国的になっているわけではない、外国の知っている選手がいれば、そちらを応援してもいい)。メダルを取る為にはどうしたらいいのかとか、選手の気持ちになり、その気持ち同一化し、ハラハラしながら観ることになる。そうすると、ゲームを楽しむというより、勝敗を気にして観ることになり、疲れが残る。スポーツ観戦の熟達者達は、もっと中立的な立場で、そのスポーツや試合を楽しんでいるのではないか。

日本の選手が少しはしゃぎ過ぎのような気もする(観客も、つまりマスコミも)。これは、今回のオリンピックが日本がホームグランドだからなのであろうか。外国の選手の方が淡々と静かであり好感がもてる。日本人の国民性はもう少し奥ゆかしくはなかったのか。

スポーツの勝ち負けを強く意識した見方を皆しているわけではないのかもしれない。勝にしても長年の苦労の末に勝ち得たものという、その苦難を乗り越える過程が注目されているのかもしれないし、勝ちを期待されながらもその期待に応えられずに敗退し落胆する姿に自分の人生を重ねてみて選手と共に涙することで、観客はカタルシスを得ているのかもしれない。

オリンピックの開催に反対しながらオリンピックの競技を楽しむのはおかしい」という意見に対して、「個々の競技に勤しむ若者とオリンピック という巨大組織は別物という観点」を藤原新也は述べている。若者の血のにじむような努力に金銭的報酬はわずかで、その若者の努力から生ずる巨額の利益をIOCや企業やマスコミや政府が得ているわけであるが、無償に近い競技者の若者達の奮闘には、我々は敬意を払うべきなのであろう。そのようなことを藤原は言っている。

ただ、オリンピック開催後、新型コロナの感染者は急増しており(7月28日の全国の感染者9千人越え)、この2つは関連していることは確かである。親が浪費しながら、子どもに倹約するようにいくら言っても効果はないし、親がパチンコに明け暮れていて子どもにゲームを禁止しても効果がない。政府がオリンピックを開催して、国民に自粛を呼びかけても、上記の親子関係のように、効果はないのは明らかである。

開会式の天皇の開会宣言の時、首相やバッハ会長が途中から立ちあがり不敬との批判が出ているが、これは必ずしもそうは言えないのではないか。西洋では偉い人の方が楽な姿勢を取るので、偉い人は椅子に座り下々は立っているが、日本では、目線が大事で、偉い人の目の位置が上で、下々は下に位置するので、偉い人は立ち、下々は床に座ってかしこまり目線を低くするのが礼儀であると、多田道太郎がどこかで書いていた。日本的な慣習で言えば、天皇が話しているとき、座りかしこまり、目線を低くするのは、礼儀に合っているように思う。