自粛の日々

非常事態宣言が首都圏の千葉県に出て、自粛の生活が続いている。この1年間、東京に一度も行っていない。電車はJR稲毛駅から千葉駅まで3分乗ったのがこの1年間に1度だけ(帰りも入れると2度)。自宅から稲毛駅までのバスに乗ったこともこの1年間に数回。大学には図書館で雑誌や新聞を読むためと研究室に植物に水をやる為に、10日の1度くらい自転車で行っている。外食もほとんどしなくなった。非常事態宣言で、公共の体育館や学校の体育館が使えなくなり、卓球が全くできなくなったのが悲しい(ほとんど毎日卓球としていた年寄りたちは今何をしているのだろう)。ただ、公共のスポーツ施設の外のテニスコートは使え、マスクをして、人との距離をとりながらの練習や試合は可能で、それに週1回参加するのが唯一の楽しみ。また、人の少ない近くの公園や海や房総方面の散策は、密にならないので、年寄りの健康保持の為に許されるであろう。下記の写真は、うちから車で10分のところにある花島公園の菜の花の蕾(小学生が川沿いに種を蒔いたという)。梅も今は咲いている。南房総では春の花が摘める。お蔭で、近場の千葉のよさの再発見にはなっている。

実証性の大事さについて

教育社会学は、実証性を重んじる学問だが、その重要性を再認識するようなことがあった。一つは、児美川孝一郎「GIGAスクールというディストピア」(『世界』2021年1月号)をめぐって、友人と議論したことである。私はこの論稿を読んで児美川氏が、現在の文部科学省の教育政策に対して、社会的な視野から批判的に見ていて、明解な論理展開で、とても感心した。経済政策のSociety5.0が、文部科学省の「個別最適化」に大きな影響を及ぼしているという見方にも感心した。

ところが、教育社会学専攻の友人たちの評価は、私の浅い読みを批判し、実証性やRealityを重んじるべきというものであった。「批判的な論考としての価値はあると思います。でも、教育社会学的、歴史社会学的かというと、きちんとした理論とデータが足りないと思います。1つの研究が社会学的または歴史社会学的であるためには、それなりの社会理論枠組みと、一定のパラダイムに乗っ取った 方法論に沿って集めたデータとその分析が必要と思います。データおよびその分析は、質的なものでも、量的 なものでも構わないと思います。」「社会事象としての Reality が欠如している。ステレオタイプな見方をしていて、教育現場の現実を見ていない。教育現場の観察なり調査なりして、現場の見ての論を展開すべきである」この友人たちの指摘から、実証性の大切さを再確認した。

もう一つは、中村髙康「大学入試改革は『失敗』から何を学ぶべきか―データ軽視・現場軽視を繰り返すな」『中央公論』(2021年2月号)を読んでのことである。昨年の大学入試のあり方の混迷の原因の一つが、入試改革論者が、現実の大学入試問題の実際を知らず、また受験生の思いを全く考慮せず、入試改革を進めようとしたことであること、中村氏は、実際のデータでそれを示して論じている。これからも、実証性の大事さを再認識した。