弱者とのかかわり―何もできない後ろめたさ

弱い人や動物とのとのかかわりは難しい。
先日、乗っていたバスに途中乗ってきたおばあさんは、どうも道に迷ったようで運転手に尋ねていて、傍の人も手助けしているが埒があかず、次のバス停で降ろされた。少し痴呆が入っているようでそのような見知らぬバス停で降ろされても困るだろう、誰かが目的のバス停まで連れて行くか、交番まで連れて行くかする必要があるように思われたが、そこまで親切にする人はいない。私も先を急いでいてそのような余裕はない。でも、大丈夫なのかと心を痛めた。
昨日、テニスをやりながらふと傍の道路をみると、生まれて1か月経つかどうかという子猫がこちらに助けを求めるように寄ってきた。よくみると片目がつぶれており、尻尾も折れていて、これでは飼ってくれる人はいないと思われる痛々しい子猫であった。
あまりの、痛々しさにテニスをやる気も失せて、どうしようか思案した。動物病院に連れて行き、手当てをして傷の回復を待って飼い主を探すというのが一番理想的な方法であろうが、そのような余裕が私や家族にはない。
10年ほど前、稲毛海浜公園に捨てられていたキャバリヤ犬を妻が気の毒に思い、病院に連れて行き、病院で3泊して手当てを受け、家に連れ帰り、近所で飼ってくれる人を探して、事なきを得た経験があるが(その詳細は2012年5月13日のブログに書いた)、今回の子猫の様子を見ると、昔のキャバリア犬以上に重傷のようで、気の毒であるが、どうしようもないと思った。
それでも、テニスをやめて、家に急いで帰り、猫の餌と牛乳を持ってきて、子猫のそばに戻ってみたが、通りかかった中学生数人が子猫を囲んでどうしようと相談していた。「とりあえずこの餌と牛乳をやってみて」と言って中学生たちに手渡し、私たちの役割はそこまでと思い、後ろ髪を引かれながらも、帰った。
 どちらのケースも、自分は何もできなかった、何もしなかったという後ろめたさを感じた出来事であった。この気持ちは忘れず、次の機会に何かできることがあればしようと思った。
 このような周囲の弱いものへの手助けが根本的には何もできないということは多いのではないかと恐れる。