言論の自由について


昔ブログを書いていた時、私のブログに他の人が匿名でも自由に書き込めるようになっていた。ある時、匿名でひどい言いがかりのような文章が書きこまれていたので、すぐに削除した。するとその匿名氏から「言論の自由はないのか」という抗議が書き込まれた。その時は、「言論の自由」という言葉に、うまく反論できなかったことを覚えている。今、ネット社会では匿名による誹謗中傷が続いているが、それをどのように考えればいいのであろうか。

「言論の自由」に関して、内田樹氏が、ブログ (blog.tatsuru.com)に明確に論じていて、感心した。(一部転する)

<「自分の書いたことについては、その責任を引き受ける」、「自分が書いたことがもたらす利得については、それを占有するにやぶさかではない」><ネット上の匿名の発言の相当数が「批判する言葉」で自分自身には直接的利益をもたらさないけれど、他者が何かを失い、傷つき、穢されることを間接的利益として悦ぶ><(それは)「呪い」である。><「呪いを発信する人」として知られることは、現代のような近代社会においても、その人の社会的信用を損ない、友人や家族からの信頼を傷つけるに十分である><自分がそのように危険な言葉の発信者であるという事実を自分自身に対してさえ隠蔽したいのである。><この「呪い」の習慣は、今の私たちの社会では「言論の自由」の名において擁護されている。>(しかし)<あらゆる言葉はそれが誰かに聞き届けられるためのものである限り口にされる権利がある。これが「言論の自由」の根本原理><私たちが発語するのは、言葉が受信する人々に受け容れられ、聴き入れられ、できることなら、同意されることを望んでいるからである。だとすれば、そのとき、発信者には受信者に対する「敬意」がなくてはすまされまい。><言論の自由が問題になるときには、まずその発言者に受信者の知性や倫理性に対する敬意が十分に含まれているかどうかが問われなければならない。><言論の自由とは端的に「誰でも言いたいことを言う権利がある」ということではない。発言の正否真偽を判定するのは、発言者本人ではなく、「自由な言論のゆきかう場」そのものであるという同意のことである。><「場の審判力」への無償の信認からしか言論の自由な往還は始まらない。><「言論の自由」とは「場の審判力に対する信認」のことであり、「私は私が今発している当の言葉の正否真偽を査定する場の審判力を信じる」という遂行的な「誓い」の言葉を通じてしか実現しない。そのような場は「存在するか、しないか」という事実認知的なレベルではなく、そのような場を「存在させるか、させないか」という遂行的なレベルに出来するのである。「場への信認」は私が今現に言葉を差し出している当の相手の知性と倫理性に対する敬意を通じて、今この場で構築される他ないのである。>「言論の自由」はどこかにかたちある制度として存在しているわけではない。そうではなくて、今ここで、私たちが言葉を発する当のその瞬間に私たちが「身銭を切って」成就しつつあるものなのである。><信認だけが、人間を信認に耐えるものにする。そのことを私は「受信者への敬意」、「受信者への予祝」、あるいは端的にディセンシー(decency 礼儀正しさ)と呼んでいるのである。それは「呪い」の対極にあるところのものである。>

仙台在住の 水沼文平さんより匿名の誹謗・中傷について、下記のメールをいただいた。ご了解を得て、実名で掲載させていただく。

<まず頭に浮かんだのは「「名こそ惜しけれ」という言葉です。鎌倉武士は戦いの前に「吾こそはどこそこの〇〇である。」と名乗ったものです。これに関して司馬遼太郎は、「名こそ惜しけれ」という考え方は「自分という存在にかけて恥ずかしいことはできないという意味」であり日本人の倫理規範の元になっていると述べています。次に思い浮かんだのは会津藩士の子弟に教え込んだ「什の掟(じゅうのおきて)」です。その中に「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」という一項があります。また海軍兵学校の五省(ごせい)には「言行に恥づる勿(な)かりしか」というものもあります。「卑怯且つ恥知らず」は日本人が最も忌み嫌ったことです。子どもの頃、いたずらを担任に告げ口した同級生を「おくびょうもの」、「お前みたいな奴がいたから戦争に負けたんだ」(意味不明ですが当時の大人の真似だと思います)と罵ったものです。恥や卑怯という言葉が死語になっているとは思えませんが、恥知らずで卑怯な人間が増えているのが実感です。「清濁併せ呑む」ことが汚濁政治家の言い訳になっていますが、松平定信の「白河の清き」時代を思い出して欲しいものです。(水沼文平)

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