狩猟について

あまり深くは考えないことがある。たとえば、病気や死ことは、少しは考えるが、深く考えることはしない。また私が深く考えることを避けていることに,食のことがある。具体的には、命ある動物を食べることはいいことなのかということである。私はベジタリアンでないので、鳥や牛や豚の肉、あるいは魚を普段食べているわけであるが、それらの動物の命を奪っていることに関しては深くは考えないようにしている。それを考えると、肉や魚を食べられない。

今から40年くらい前の昔のことを、今でも時々思い出す。大学の助手をしていた時、研究室の松原治郎先生のお供で、富山県の教育委員会の依頼で、先輩や院生らと富山県の教育計画の基礎データを調べに行ったことがある。その打ち上げで県の教員委員会の人が、我々に高級な料理をご馳走してくれた。その時に出た料理が「ヒラメの生け作り」であった。少し前まで料亭の水槽で泳いでいたヒラメを料理して、生きた姿のまま刺身として出す高級料理であった。ヒラメの身を箸で突っつくと、ぴくぴくと動いた。皆は美味しいと言って食べたが、私は、ヒラメの痛みを感じ、食べることができなかった。そしてその後も2~3か月は白身の魚は食べることができなかった。

小学校のクラスで豚を飼い(飼育し)、そのクラスが解散する時、その豚をどうするか(食肉業者に渡すかどうか)を、議論するような実践(映画?)が昔あった(https://ja.wikipedia.org/wiki/ブタがいた教室))。そのようなことを小学生に考えさせるのは、残酷なことだと私は思った。

食育の教育で、動物など生きたものの生命を食する時は、生きものの命をもらうことへの深い感謝を持ち、命を粗末にせず残さず食べるということが大切、というようなことが言われているような気がするが(きちんと調べたわけではないので、正確にはわからない)。人間の都合で、動物の命を奪って食べ、感謝するなど、私は欺瞞的なような気がする。したがって、このことは、深く考えないようにしている。

今年の大学入試センター試験の国語の問題にも出た河野哲也『境界の現象学―始原の海から流体の存在論へ』(筑摩書房、2014)を読んでいたら、狩猟のことが書かれている箇所があり、この食の問題への1つの切り口になるように感じた。また、狩猟は、その狩の場に溶け込むことが大事と書いてあり、人が何かを判断する時の有効な方法であることも知った。

狩猟は、農耕とは違い、定住せず、手つかずの自然(wilderness)に分け入って、動物を追い、食うか食われるかの戦いをひろげることだという。人間は猟に敗れ、動物(たとえば熊)に襲われ食べられてしまうこともあるという。狩猟は「飼育」とは違い、動物を殺すか自分(人間)が殺されるか対等な立場にある戦いであるという。生きるためには、相手を殺さざるを得ず、食うか食われるかの戦いが狩猟である。(動物との対等の)戦いであるのなら、「飼育」のような後ろめたさはない。殺して食べることはできるかもしれない、あるいは殺されても諦めがつく)。

もう一つ感心したのは、狩猟はその狩の場に身を潜め、その場の全体状況を把握し感じ、時が来れば一気に行動を起こすこと必要があるという。農耕のように先を見こして計画してことを運ぶのでない。狩猟のように、全体の場の空気を読むというのは、受け身ではなく、ものごとをなす重要なことということ知った。上記のようなことが書かれた河野の著書の箇所を、少し転載しておく。

「狩猟者は『食べる―食べられる』関係によって自己を自然の一部と感じる。獲物を取るために、環境に同化し、獲物の行動を模倣する。(中略)狩猟者は、自然と覚醒的に一体化し、その変化と流転を感知する。(中略)周囲環境に溶け込まねば、獲物に自分の存在を発見され、逃げられてしまう。」(84-5頁)。「猟とは人間が食料を得るという目的のために、ウイルダネスで動物と対峙する行為である」(85頁)。「猟の獲物とは、人間以上の運動性能を持ち、稀少であるような動物である。猟は、高度な生命を自分の生命の資源として、その魅惑的な生命に死をもたらす」(86頁)。「獲物を捕るには、獲物と狩猟者が共に生きている環境を熟知し、獲物の意思を理解し、その行動を模倣してみなければならない」(87頁)。「猟は獲物を食べるために捕る。獲った動物を食べるのは、道徳的責務ですらある。殺した獲物を食べないのでは、獲物も狩猟者も生の意味を失うからだ。しかし食べられるのは動物の方とは限らない。相手がクマのような肉食獣であれば、人間が逆に獲物になる可能性もある」(90頁)。「狩猟者の志向性は、志向のない志向性である。それは環境の全変化への知覚である。獲物に変身し、周囲自然に同化した身体による志向性のない知覚と、解釈しない志向性、これが狩猟者の意識である。志向性のない志向性とは、存在に一切の意味を付与しないでいる。純粋な存在との邂逅としての志向性である。これがウイルダネスでの猟する意識である」(97頁)(河野哲也『境界の現象学』筑摩書房、2014)

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