「教育原論」(第6回)の授業の記録、まとめ、補足

第6回の授業(5月24日)では、「学校について考える」(その3)と題して、不登校、いじめ、ホームスクーリングについて話し、皆さんにもグループ議論してもらいました。               なぜそれらのことが学校と関連しているかというと、現代の学校が規則に縛られ官僚制化していくと、学校組織・学級集団の特質や子どものストレスからいじめが蔓延化し、学校に合わない子どもが出てきて、不登校になったり、そんな学校に行くより家庭で子どもを育てた方がいいのではないかという考えも出てきます。(ホームスクーリング)。学校に行きいじめに会い、自殺に追い込まれるくらいなら、学校を休み、ホームスクーリングで学んだりした方がいいように思います。このように、不登校、いじめ、ホームスクーリングは、学校のありかたと関連しています。

不登校(登校拒否)に関しては、文部科学省(文部省)の考え方も平成4年を境に変わってきました(沢崎参照)。文部省は不登校(登校拒否)の原因は家庭や本人だけにあるのではなく、学校にもあると認めました。そしてそれに基づいた対策が模索されています。

いじめに関しては、いまだ原因がよくわからず、見当はずれの対策ばかり取られています。いじめは定義が難しいという話をしました。現在は、いじめの被害者の苦痛にもとづいた心理的な定義が優位(文部科学省も)で、それは加害者の言い逃れを防ぐ優れた定義ですが、同時にあいまいで、冤罪が起こる可能性もあります。森田洋司のいじめの4層構造(加害者、被害者、観衆、傍観者)の話をして、集団の反作用が大事という話をしました。いじめは、閉鎖的で半親密な集団で起きる可能性が高いので、そのような特質を持つ学級がその温床になっています。学級集団の改善が必要です。いじめ自殺を防ぐためには、「学校に行きいじめにあうくらいなら、不登校になりなさい」という裁判所の判例もある(山本雄二)という話をしました。

このように、いじめ、不登校、ホームスクーリングは、今の学校のありかたとも関連していますので、教師を目指す皆さんも、いろいろ根本的なところから考えてほしいと思いました。(以下、当日の配布資料再掲)

性別役割分業意識の今

子どもを産んで仕事を辞め家事と育児に専念する妻に、夫が「私も家事と育児を手伝う」と言ったのに対して、妻が切れて怒り、「男と女(夫と妻)は対等(平等)ではないの、家事と育児は女(妻)のやるべきものという考えに基づいたあなたの『手伝う』という発言にむかつく」というようなことがたくさん書かれている韓国の小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が、韓国でベストセラーになっていて、それが日本語に翻訳され、日本の女性の中にも共感して読む人が多い、という内容の放送が、NHKの朝の番組であった。            
ジェンダーの平等とか男女共同参画という趣旨の報道だと思うが、少し古い感じがした。

 昔上智大学の教育学科の男子学生に将来の夢を聞いたところ、「子どもが好きなので、家庭で子育てができる専業主夫になりたい」と本気で答える男子学生がクラスで2~3人はいた。                       最近も、大企業で働くエリートサラリーマンで、生まれたばかりの自分の子どもと過ごす時間が至福の時と感じ、「いつも子どもといられる専業主婦のあなた(妻)はずるい、あと何年かしたら、私が家事と育児をするから、その時はあなたが働いてほしい」と夫から言われた女性がいるという話を聞いた。                                                   仕事と家事・育児のどちらがやりたいことなのかは、性別によらず個人で違うのが今(近代以降)の傾向なのではないか。

スポーツの上達について

どんなスポーツもライバルや見知らぬ相手と試合をして自分の腕を試した方が、上手になることであろう。試合があれば、それの勝利を目指して日頃の練習にも力が入る。そのようなことはわかっているのだが、私の齢だと上達するということはあまり望めず、対外的な試合に出ることはない。                                    

卓球はたくさん対外試合があるようで、卓球仲間はよくそれに出て腕を磨いている。ただ卓球の試合に勝つには、巧妙なサーブや相手がミスを誘うような打球を打つ必要があるように思う。それは私にはあまりフェアではないような気がする。もっと卓球も真っ向勝負すべきだと思う(野球のピッチャーのストレートの剛速球と打者の対決のように)。それで私は卓球の練習では、フォアで相手と早く強い球を打ち合い、どちらが力勝ち(負け)をするかを試すのが好きである。                                  

テニスの場合は、私に相手の剛速球をうち返す力がなく、つい高い球(トス)や短い球(スライス)で相手のいないところに打ってしまうので、(真っ向勝負など)偉そうなことは言えないのだが。

「空気を読む」ということ

「KY」というのは「(その場の)空気を読めない人」という意味で、空気を読めない人を非難する言葉だと思うが、逆に「空気を読む人」もあまり褒められることはない。「周囲の意向ばかり気にして主体的に自分で考え行動することのできない人」という非難が浴びせられるであろう。

内田樹の最近のブログの「『適当』について」(blog.tatsuru.com/2019/05/19_0956.html)を読んで、「空気を読む」ということは、そんなに非難されるべきことではないのかもしれないと思った。該当(と思われる)の箇所を抜き出しておく。

<武道の要諦は、一言で言えば、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされる。能のシテも同じです。地謡や、囃子方や、お相手をするワキ方や、作り物や、装束や面や、所作や道順や、演じている役など、様々なものによってその動きが制約されている。その所与の環境の中で、最適解を選ぶことを求められる。いつ、どの位置にいて、どういう所作をして、どういう声で、どういう言葉を発すべきか。そこには必然性がなければいけない。(中略) ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。これを武道の用語では「座を見る、機を見る」と言います。これは柳生宗矩の言葉です。「座を見る」というのは、その場において自分がどこに立つべきかを知ることです。「機を見る」というのは、それがいつかを知ることです。いるべきところと、いるべき時を知る。そこでなすべきことをなす。>

宿泊のホテルについて

旅行の楽しみの一つは、どのような素敵な(快適な)ホテルに泊まるかにある、という人も多いであろう。 私も宿泊のホテルが、清潔でなかったり、朝食が美味しくなかったりすると、その旅行の楽しみ半減してしまうように思う。 ただ、ホテルの素敵さ・快適さは、値段に比例するようなところがあり、(貧乏な)私は、あまり高くを望まないし望めない。ホテルは寝るだけなのだから、寝れさえできればよく、なるべく安いところに泊まろうと、つい(貧乏くさく)考えてしまう。

昨年京都で開かれた学会に参加した時、知り合いが探してくれたホテルは、京都駅前にあり、新しく出来たばかりで、清潔で、機能的で、スタッフの感じもよく、大浴場がついていて、朝食のバイキングも美味しく、シングルの部屋もゆったりとしていた。(本当はいけないのかもしれないが)飲み会の2次会を7人が参加して部屋で開けたほどで、とてもよかった。値段は1泊12000円。

大阪には、外国人の旅行者も泊まる、安く快適なホテルがあるという。それを卒業生が教えてくれた。彼も今泊まっているという。1泊1000円とは驚きである。

<あの辛口大阪DEEP案内(東京DEEP案内の元サイト)が「認識を改めざるを得ない」と書くくらい、西成(釜ヶ崎)は変わっていますね。http://gigazine.net/news/20120616-nisinari-hotel/、 https://osakadeep.info/nishinari-kamagasaki-for-backpackers/       こちらは、朝7時からチェックインできて(チェックアウトは翌日の10時)、露天風呂に入れて、令和記念で1泊1000円。今、泊まっていますが。https://www.junon-hotels.com/sunplaza/>