「空気を読む」ということ

「KY」というのは「(その場の)空気を読めない人」という意味で、空気を読めない人を非難する言葉だと思うが、逆に「空気を読む人」もあまり褒められることはない。「周囲の意向ばかり気にして主体的に自分で考え行動することのできない人」という非難が浴びせられるであろう。

内田樹の最近のブログの「『適当』について」(blog.tatsuru.com/2019/05/19_0956.html)を読んで、「空気を読む」ということは、そんなに非難されるべきことではないのかもしれないと思った。該当(と思われる)の箇所を抜き出しておく。

<武道の要諦は、一言で言えば、「いるべきときに、いるべきところにいて、なすべきことをなす」ということに尽くされる。能のシテも同じです。地謡や、囃子方や、お相手をするワキ方や、作り物や、装束や面や、所作や道順や、演じている役など、様々なものによってその動きが制約されている。その所与の環境の中で、最適解を選ぶことを求められる。いつ、どの位置にいて、どういう所作をして、どういう声で、どういう言葉を発すべきか。そこには必然性がなければいけない。(中略) ある状況において与えられた中で自分のパフォーマンスが一番上がるところはどこか。これを武道の用語では「座を見る、機を見る」と言います。これは柳生宗矩の言葉です。「座を見る」というのは、その場において自分がどこに立つべきかを知ることです。「機を見る」というのは、それがいつかを知ることです。いるべきところと、いるべき時を知る。そこでなすべきことをなす。>