関西の文化について

東京育ち、湘南住まいの知人が、大阪に住み、関西の大学に勤めるようになってもうすぐ1年。彼は、大阪が面白く、たいそう気に入っているようだが、学生から、「先生の話にはオチがありませんね」と言われて、ショックを受けたということを、年賀状に書いていた。
以前にも一度書いたことがあるが、昔全国大学生協のシンポで、私の前の報告者の竹内洋氏(当時京都大学助教授)の話を聞いて、青ざめたことがある。ユーモアに満ち、ボケとオチがありで、聴衆は爆笑とともに聞き惚れていた。その後で、どのような話をすればいいのか冷や汗ものだった。居直ってデータの解説に徹し、その場を凌いだが、関西の話文化の伝統のすごさを知った。
 それから、自分の講義にもせめて「ボケ話」やオチを入れるようにしたが、東京(関東)の大学で、自分がボケた話をすると、関西風にツッコンではくれなくて、その通りにとられ、憐憫と軽蔑の混じった視線を向けられる。
 私は関西で生活したことはないが、関西の血は流れており(父が兵庫県龍野出身、親戚は関西に多い)、関西人の祖母によく面倒を見てもらい、関西弁、関西文化に浸ってきたので、関西の文化は身体化されているはずである。これまで関西の大学で教える機会がないことが、とても残念。「ボケやオチのある私の話」(?)は、関西の学生に受けたはずなのに。

庶民のささやかな楽しみ

私の小さい頃は、時代のせいか、家が貧しかったせいかわからないが、家に風呂なく、何日か1度近くの銭湯に行った記憶がある(夏は、タライで行水の日も多く、銭湯に行ける日は限られていたような気がする)。大相撲があるときは、銭湯のテレビを見ようと横綱の取り組みの時間に合わせて、銭湯に行った。なんと庶民的なつつましやかな生活であろう、と今は思う。
そう言いながら、今も同じようなつつましやかな生活をしている自分を発見する時がある。育ちは隠せない。
近所(車で5分のところ)に「スーパー銭湯」のようなものがあり(名前は、「極楽湯」http://www.gokurakuyu.ne.jp/gokurakuyu/tempo/chibainage/)、そこの無料券があるというので、娘に勧められ、お正月(3日)に夫婦で行った。何の期待もなかったが、行ってみたら、温泉ではないが、温泉場のようなたくさんの種類の湯場があり、結構楽しめた。
さらに湯上りの場は、温泉場よりさらに広く、食事処になっていて、お正月ということもあり、多くの家族連れで賑わっていた。その光景は、まさに宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の世界の賑わいであった。
 お金持ちや育ちのよい人たちは、今頃、スキー場や山の温泉場で、本物の温泉に浸かり、おいしい料理に舌鼓を打っていることであろう。それに比べ、庶民の楽しみは、なんとつつましやかなことか。
千葉県に住み、銭湯に浸かり、その庶民の一員であることを、実感したお正月であった。
 (一方、放射能に怯える福島の人を思えば、自分の家に住み、近場の銭湯に行ける生活は、ぜいたくで、幸福な生活かもしれない)

上記の文章に、Mさんより、貴重な体験談をお寄せいただいた。掲載させていただく。
うちでもその後、自宅に風呂場はできたが、それはまきで焚くお風呂であり、近所から廃材をもらってきては、まき割をして、それをくべた。

<「庶民のささやかな楽しみ」を読んで子どもの頃の風呂沸かしを思い出しました。
丸い木製の風呂桶は家の中にありましたが、釜は外付けでした。
まずは水汲みです。
10メートル位離れた所に「はねつるべ」式の井戸がありました。
これは桶を竹につけて細木の天秤の一方に下げ、他の一方に重しの石をつけ、楽に水を汲みあげられるようになっています。
バケツで何回ともなく往復、風呂桶をいっぱいにします。
次は風呂の焚きつけです。
新聞紙に火を付け、乾燥した杉っ葉を乗せます。その上に細木を置き、燃え盛ってきたら太い薪を入れます。
父親が帰るころ見計らって湯沸かし完了とします。
沸く間は近所の子ども達とビー玉やメンコで遊んでいます。
これが私の小学校低学年の頃の日課でした。
現代はスイッチひとつで「お湯張り」「おいだき」をしてくれます。
沸くと女性の声で「お風呂が沸きました」と知らせてくれます。
私の小中学校時代に、井戸は「はねつるべ」から「ポンプ」そして「水道」、風呂も「薪」から「石炭・石油・ガス」へと急激に変化していきました。
一種の懐古主義でしょうか、作業の手順を踏んで風呂を沸かした昔が懐かしく思われます。
科学や技術の進歩は便利さと引き換えに我々から、物を作ったり、作業したりする喜びを奪い、頭でっかちなへんてこな動物に変えつつあるのかもしれませんね。>

 

叔父(叔母)―甥、姪関係

 現代は親戚関係が段々薄れてきているのではないだろうか。親戚で集まるのは普段はなく、お正月かお盆か、誰かの結婚式か葬式や法事くらいになっている。それも、中心の人(父母など)が亡くなれば、お正月やお盆にきょうだいで集まることもなくなるし、結婚式や葬式も内輪で済まし、親戚で集まることも少なくなっている。
 昔は、親戚の行き来も多く、子どもは叔父や叔母からいろいろ世話をしてもらうことが多かった。自分の少年期を振り返って見ても、狭い自宅に大学受験前の伯父や叔母が田舎(佐渡)から出て来て居候していたし、それらの叔父叔母にに勉強を見てもらったり、海水浴に連れていってもらったり、日比谷へ映画を見に連れていってもらったりした。その時見た映画「沈黙の世界」「隠し砦の三悪人」「麗しのサブリナ」などは強烈な印象が残っている。その時の影響が、今の自分の考え方や行動に大きな影響のあることを感じる。
 そのお返しは次の世代へという気持ちがある。私はこのお正月は、私の実家の母のところに来た姪や甥の子どもに、お年玉や福袋をあげたり、一緒に遊んだりした。(逆に私が遊んでもらった感じもするが)子どもたちは昔ながらの他愛もないことに楽しみを見出し、昔と変わらない子どもの姿(ふざけたり、些細なことに笑いこけたり)も垣間見た。

「中教審答申」の解説を聞く

私学教育研究所の主催する研究会が、今話題の中教審答申(『新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて―生涯を学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325047.htm)を取り上げ、主に委員のメンバーがその説明をするというので、それを昨年末に聞きに行った(「第54回公開研究会「中教審答申(24・8・28)をどのように受け止めるか―これからの具体的な課題は何か」2012年12月20日、私学会館)。
報告者が、浜名篤(関西国際大学学長)、川嶋太津夫(神戸大学教授)、山田礼子(同志社大学教授)、[以上中教審委員]、小笠原正明(北大名誉教授)という著名人のせいか、会場は200人近く一杯で、熱気に溢れていた。

私は、まだ中教審答申を詳しく読んでいないので、報告に感想を言う資格もないが、解説を聞いて、疑問に思ったのは以下の点である。

1 中教審答申というのは、誰が主体(答申の責任者)なのであろうか。中教審の委員がそれを、他人事のように語る場合や、文部科学省の役人が答申を文部科学省の方針(政策)のように説明する場合がよくあり、主体がわからなくなる。
2 昔、中教審委員だった清水義弘先生(当時東大教授、教育社会学会会長だったと思う)は、自分の主張と中教審の路線とが合わないという理由で、任期半ばで委員を辞任している。今、多くの教育社会学者が、中教審の委員になっているが、学問的主張と答申との関係はどのようになっているのであろうか。(もっとも、今回の答申では、そのような対立はなく、答申の内容に、教育社会学的な観点が多分に入っていることが感じられる。別の教職免許の改正に関する答申は、かなり現実離れしたことを言っているように思う。研究者の現実感覚が問われている)
3 日本の大学生は、授業には出席しても、授業外での学習時間が短く、それを制度的に(個人の心構えに頼るのではなくシステムとして)何とかしよう(=単位性の本来のあり方を実行しよう)というのが、今回の中教審答申の狙いの一つのようだ。そこでは、次のようなことは充分に考慮されているのかが疑問に感じた。つまり、今の大学生も、語学や自分の発表の時や試験の時は、授業外でよく勉強している。日本の高校も単位制だが、高校生は、大学受験の為、授業外の学習時間は大学生より長い。大学時代の学びは、授業以外の自主的活動や自発的学習(読書等)によるところが大きい。
4 中教審答申では、大学での「アクティブ・ラーニング」が盛んに奨励されているようである。その説明は、中教審答申では次のように、書かれている。
<生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を修得でき
るのである。>
妥当なことが書かれているように思う。しかし、それは、小中高で行われてきた「総合的な学習の時間」の活動の大学版という印象も受ける。それで、今は知識基盤社会と言われ、学問の基礎レベルが上がっている現在、大丈夫なのであろうか。知識の伝達・注入こそ今最初にすることではないかという疑問もおこる。
 
上記は、中教審答申をじっくり読むことはせず、報告(「解説」)だけ聞いて、印象だけを書いたものである。これから、中教審答申を読み、私の考えを訂正しよう。

本の書評、解説について

 考えてみると、私は、書評や本の解説を読むのが好きかもしれない。書評を読んで,その本を購入することもかなりある。でも、書評や解説を読んでから元の本を読むのでは、先入感ができて純粋にその本を読むことにはならないのかもしれない。
 一方、解説や書評の積極的な意味もある。
 社会科学の大層な本を翻訳で読もうとしても、難解で、途中でめげてしまうことが多い、それが解説に導かれてポイントを掴むことができれば、読み終えることができる。
 また、解説や書評(さらにいえば文藝批評)は、原本とは違った独自の価値を有しているとも言える。小林秀雄、江藤淳などの文藝批評は、小説とは違った独自の世界を描き、独自のジャンルを作り出している。
 江藤淳の『成熟と喪失―母の崩壊』という名著の中に、小島信夫の『抱擁家族』に関する叙述の部分がある。日本の夫婦関係の未熟さと滑稽さを考察した内容だが、その分析の巧みさに感心させられる。そして夫婦の関係について深く考えさせられる。それに導かれて原典(『抱擁家族』)を読むとあまり面白くない。(同じことを、文芸批評家が書いていたように思う)。このように、小説より、その批評の方が優れていることがある。
 渡部真氏が、森鴎外の「半日」についてブログで解説している(http://sociologyofyouthculture.blogspot.jp/)。夫婦関係の難しさを的確に指摘している。そこで鴎外の「半日」を読んでみたが、それほど、私は感心しなかった。(漱石は好きだけど、鴎外は好きではないという、私の趣向もあるのかもしれないが、少なくても私はそう感じた)。渡部氏の解説がそれだけ優れているのである(鴎外の小説が面白くないわけがない)