年賀状について

昔、友人のひとりが、「年賀状などという虚礼をやめよう」という「勇気ある提案」をして、その理由を書いた長々とした手紙を皆に送ってきたことがある。その趣旨に賛同しながら、ずるずると年賀状を出し続けてきた。
前年にお世話になった人に、そのお礼を兼ねて年賀状出すのはいいのだが、その関係が途絶えてからも、惰性で何年も年賀状のやり取りが続く場合が少なくなく、これこそ虚礼であり、やめた方がいい。
しかし、こちらから出さなくても先方から年賀状をいただくことがあり、その返礼を書き、結局年賀状のやり取りが続いてしまうことが少なくない。
「退職(や高齢)を機に、年賀状を取りやめます」と宣言される先輩や後輩もいて、それはスッキリしていいと思う。

教え子から年賀状をもらうことが昔は多かったが、今は少なくなった。昔勤めていた武蔵大学や上智大学の学生や院生から多くの年賀状を受けとったが(今もそれが続いている人も少なくない)、今教えている敬愛大学の学生から年賀状をもらったことはこの6年間1通もない。これも考えてみると少しさびしいが、今の学生に、教員に年賀状を出すという習慣はないのではないか。さらに年賀状自体誰にも出さないのかもしれない。普段からSNS(フェイスブックやライン)で友人と連絡を取り合っているので、わざわざ紙の年賀状で新年の挨拶をするなどという面倒なことをしないのであろう。
私の歳になると、年賀状を出さなかったり返事を書かなかったりすると、「生きているのだろうか?」とまず疑われるので、年賀状は、「今も生きています」という生存宣言のようなものになっている。
それでも、昔の知り合いや教え子から年賀状をもらうと、その人との交友や関係があった頃の情景がいくつか鮮明に浮かび、昔を懐かしみ、嬉しいことである。
武蔵大学の教え子のI君の今年の年賀状には、「子どもが就職の時期を迎えた」とある。彼で思い出すのは、授業の合間に私の部屋に来て「ジャックダニエル」を1杯のみたいといい、飲んで授業に出ていったことである。そんな牧歌的な時代があった。
上智の卒業前のゼミ生を自宅に呼んで料理してもらい食べる会を毎年開いていたが、そのときの働きぶりと、送ってくれた年賀状の今の家族の写真を重ね、彼女(彼)の今の生活ぶりを想像するのも楽しい。
このように、年賀状は、人それぞれ効用や楽しみがあり、なかなか辞められないのかもしれない。ただ、ネット時代だし、ネットの年賀状にした方が、便利でいいのかもしれないと思う(「もう既にラインでやっています。知らないのは先生だけです」という学生の声が聞こえてきそうだが)

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今年の初詣

私は戦後民主主義と科学信仰の時代に教育を受け育ったので、不合理なものへの信仰や感受性が乏しい。したがって、お寺や神社や教会に行くことがほとんどない。しかし、お正月ということで、家族の初詣(神社参拝)に同行した。
いつもは家の近くの稲毛浅間神社にお参りに行くのであるが、今回は午前6時と早起きして家から少し遠い(車で30分〜1時間)、千葉の香取神宮(http://www.katori-jingu.or.jp/)と成田山新勝寺(http://www.naritasan.or.jp/)にお参りした。
今日(1月3日)は、お正月で大安ということで、早朝にもかかわらず、駐車場はいっぱいで、多くの参拝客がいた。屋台もたくさん出ていて、懐かしもの(べっこうアメ、チョコバナナ,だるま等)、珍しいもの(トルコ料理)もあり、参拝途中、甘酒、トン汁、おせんべい、みたらし団子など、美味しくいただいた。
昨年は、私は「八方塞がり」の歳とかで、いろいろなことがあったが(お祓いも2回もした)、今年はお正月早々、家族で神社とお寺に丁寧にお参りしたし、成田山では車のお祓いまでしてもらったし、悪いことは起こらないことを心から願う。また、多くの人にとっても社会にとっても、良い年でありますように。

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優れた本や論文の継承について

作田啓一の著書を私に教えてくれたのは、大学院の先輩の高橋均さんである。私がM1の時、高橋さんはD3で、D1の近藤純夫さんと二人で社会化論の読書会をしていて、私を加えて下さった。その時のテキストが作田啓一の『価値の社会学』に後に収録される論文であった。読書会では、作田啓一の文章を一字一句その意味を考えながら読むというものであった。人の心理をこのように社会的なことや文化的なことと結び付けて、しかも論理的に論じることができるものなのかと驚いた。そして、それで私はすっかり作田ファンになった。
忘れていたが、私は助手の頃、教育社会学コースに進学してきた学部の3年生に、作田啓一の論文や本を紹介したことがあったようだ。優れた若者論の著作のたくさんある渡部真氏(横浜国立大学教授)より、下記のメールをいただいた。(ご了解を得て、一部転載させていただく)

<武内先生のブログを拝見しております。(中略)中でも12月29日の「作田啓一(氏)のこと(その2)」は非常に興味深く読ませていただきました。私も作田先生には面識がなく、井上先生には一度お目にかかっただけですが、お二人とも「顔の見える社会学者」ということで大変に尊敬しております。
もう40年以上前になってしまいますが、武内先生が東大の助手をされていたころ、少人数の読書会をひらいてくださり、その時あつかわれたのが作田先生の「価値の社会学」という御本と井上先生の青年文化についての論文でした。 今にして思いますと、あの武内先生主催の読書会は4年間の学生生活の中で、もっとも強い知的刺激を受けた時間でした。
特に井上先生の論文は、青年文化を「聖と遊びへの離脱」「俗生活への批判」として捉えた画期的なものでした。私も青年のことを考える時には、今でも、たちかえる論文です。
井上先生もお元気でおすごしとのこと、とてもうれしく思います。>

このように優れた論文や本は、時代を超えて受け継がれていくのであろう。
ただ、現代の大学の授業を考えると、あまり本や論文を学生に紹介しても関心を持ってもらえず、それよりアクティブに作業したり、討論したり発表したりすることが奨励され、それが学生の関心も高める方法となっている。読書という伝統的な方法による文化の継承が難しくなっている。

新年のご挨拶

謹賀新年
昨年はお世話になりました。
今年もよろしくお願い致します。
皆様のご多幸をお祈りします。
2017年(平成29年)元旦
武内 清