ドラマの「ネタバレ」について

ネットでドラマや映画の感想などを見ると、あらすじなどへの言及があり「ネタバレがあります」と警告が書かれていることがよくある。そのことから、映画やドラマを見る時、どのようなストーリーなのかを知らず、その先どのようになるのかドキドキしながら見るのが正しいドラマや映画の見方という暗黙の了解がある。私もそのように思ってきたが、果たしてそれが唯一正しい見方なのであろうか。

小説の場合、気に入った小説は何度も読み返し、ストーリー(筋)はわかっていても、再読にはいろいろな発見がある。夏目漱石の研究で多くの本を出している石原千秋などは、何百回と漱石の作品は読んだと書いていた(ように思う)。小説の場合、最初に読んだときは気が付かなかった登場人物の心理や、細部のことがいろいろわかり楽しい。ドラマや映画も同じようなことが言えるのではないか。それなら、あらかじめストーリーを知っておくのもいいかもしれない。特にストーリーが複雑なドラマや映画は、私のような理解力の乏しい人間には、ネタバレを先に読んでおくのはいいかもしれない。

韓国ドラマ「秘密の森」の「シリーズ2は、シリーズ1以上にストーリーは複雑です」、とそのドラマを薦めてくれた知人から告げられている。私はハングル(韓国語)がわからないので、人名が出てきても誰のことを言っているのかよくわからず、ドラマの筋が余計よく見えない。今回「秘密の森2」のネタバレを先に読んで、それからドラマを見てみようかとも考えている(ただ、それではサスペンスドラマの面白みが半減してしまうかもしれない。迷うところである)

コロナに感染したらアウト?

現在、コロナの感染者が全国で1日に2万3千人に達しようとしている。でも、人々の意識に、それほど危機感はないように思う。緊急事態宣言が出されても、店は通常通り開いているし、公共の機関も閉鎖になっていない。テレビでは旅番組やお笑い番組が多く、高校野球やこれから始まるパラオリンピックの話題で盛り上がっている。新学期になって学校や大学が休校になるという話も聞かない、政治家は、自民党の総裁選と衆議院の解散後の選挙のことで頭がいっぱいのように見える。

オーストラリアのシドニーでは、感染者はそれほど多くないようだが、市はロックダウンされていて、飲食店は全部閉まりデリバリーだけ、スーパーは1家族1人だけ入場可、公共の機関(公園等)も閉鎖、5キロ以上の移動禁止、家族以外の人と会うこと(会合)禁止、違反すると10万円の罰金と、かなり厳しい規制が敷かれているという。日本でこのようなロックダウンがひかれる様子はない。

私の住んでいる千葉市で昨日の感染者は196人、千葉県全体では1304人。家の近くのかかりつけの医のところに行ったら、医者から「気を付けて下さい。コロナに罹ったらアウトです」と言われた。千葉市も病床がひっ迫しているのであろう、感染したら医者が出す薬もなく医者から紹介してくれる病院もなく、「アウト」ということであろう。事態はかなり深刻なところに来ているような気がする。

追記 1日の感染者が、本日(19日)東京都で5534人、全国で25156人になり、医療崩壊が起きていると声高に叫ばれても、感染を拡大する行事が、実施されるのをまのあたりで見ていると、人々が危機感を持つことができないのは当たり前のように思えてくる。パラリンピックの開催は仕方がないにしても、それへの児童・生徒の観戦の許可・奨励がなされているのは疑問である。今10歳以下の子どもの感染も増えているという。政府や東京都が本当に感染拡大の危機感を持っていたら、少しでもコロナの感染を拡大するような行事はやめるはずである。パラリンピックへの児童・生徒の観戦そのものは、感染対策を徹底的に取れば直接感染に影響がないかもしれないが、このようなイベントに(感染の増えている)子どもを見学に行かせるということが、人々の気のゆるみを引き起こし、それが感染拡大の行動(3密、会食、旅行等)を引き起こすことは必然である。

追記2 パラリンピックに関しては、パラの意味がいろいろあるようだ。1つの見解< 多くの人が「パラリンピック」の「パラ」意味を、下半身不随(paraplegics)から来ていると考えている。 しかし実際は、この名はグットマンのビジョンに基づいているという説が有力だ。 「パラ(Para)」はギリシャ語の前置詞で、「並んで立つ」という意味があり、ここでは「対等」という意味を持つ。>(ネットより)

「死ぬな生きろ」(藤原新也)

藤原新也は、CATWALKという会員制のサイトを開設している。その会員の希望者全員に、藤原直筆の書(「死ぬな生きろ」)を送付するという大変な作業をしている。その数は千を超え、書き損じた書も多いという。送られて来たその書には、氏の魂(思い)が込められている。護符としての役割も果たす。

「死ぬなという直接的なものではなく、死んだごとく生きるなという意が込められています」と、「いま私たち人類はコロナ禍という未曽有の危機に直面することとなり『死ぬな』の意が直接的な響きを持つ局面に置かれています」と、この言葉は、「時代に応じて言葉の意味が変化する」、(その中において)「強く生き抜かれること心より祈ります」と、書には添え状があった。

韓国ドラマ「秘密の森」を観る

「秘密の森」の第1シリーズ16話を見終わった。見始めて4日ほどで16話まで見たので、1日に3~5話ほど見たことになる。新型コロナの感染拡大と大雨の天気の為、どこにも行けず、ドラマでも見るしかなかったせいもある。これまで、私が多く見てきた韓国ドラマと少し感じが違った。一気に見るほど面白いのかと聞かれれば、そのようにもに言えるのであるが、感想として言えることがあまりない。ネットで一般の人の感想がどこかに載っていないかと探したけれど見つからない(これまで、私の見た韓国ドラマへの一般の人の感想は、ネットにたくさんあり、それをブログで紹介してきた)。殺人事件や汚職事件が絡むサスペンスドラマであり、娯楽性が高く、そこに何か感情移入したり、生き方のモデルを見出そうとするものではないのかもしれない。退屈な時間を潰すことはできた、と喜べばいいものかもしれない。

ネットからの解説、感想を一部転載しておく。―(ストーリー)子供時代に脳手術を受けた影響で感情を失い、理性だけで行動する冷徹で孤独な検事ファン・シモク(チョ・スンウ)。日常のように目の当たりにする検察の内部不正を断ち切ろうとしていたシモクの前に、現れた第一の死体。その後、相次ぐ第二、第三の死体。検察の内部不正を覆い隠すために相次いで起こる殺人の中で、周りの人すべてが殺人の動機を持つ容疑者として次々と浮上する。時には全員が犯人のように、時には全員が無実であるように感じられる…。そんな中、シモクはだんだん犠牲者たちの共通点に気付き始めるのだが…/キャスト■ファン・シモク(西部地検刑事3部 検事)、チョ・スンウ、■ハン・ヨジン(龍山警察署強力班の刑事)ぺ・ドゥナ/■イ・チャンジュン(西部地検 次長検事)ユ・ジェミョン/■ソ・ドンジェ(西部地検刑事3部 検事)イ・ジュニョク/■ヨン・ウンス(西部地検刑事3部 検事)シン・ヘソン/演出:アン・ギルホ,脚本:イ・スヨン /(感想)「すごく練られたシナリオを実力派俳優陣がかためていてハラハラドキドキしました」「1話毎に引き込まれてテレビにくぎずけ。見応えのあるドラマです。」「検察という大きな組織に立ち向かう冷徹な検事と正義感の女刑事。一見、ありそうなストーリーではありますが、色々な目線で見れるドラマです。」(https://www.bs11.jp/drama/stranger/

1話1話、殺人や騙し合いや探り合いの連続で観て疲れる内容だが、主人公の検事シモクの感情に動かされない冷静な判断と行動、それと対照的な義理人情と熱血漢の女性刑事ヨジンの行動力、謎めいたユ次長検事、健気な女性検事ヨン、それらの人の人間関係の絡み合いは、利害が対立していて緊張の連続だが、その底流には韓国人特有の情のあついものが流れていることを感じる。脳の手術で感情をつかさどる部分を失いその分認知能力やや察知能力が卓越し、人の些細な表情や行動の意味をいち早く察知し、隠されたものを何の忖度もなしに明るみに出していく検事シモクの手腕に痛快さを感じることができる。韓国に詳しい友人からは、韓国の検察と警察との関係は日本と違うこと、韓国では人とのつながりを公でも重視し、それが出世や優遇や賄賂につながり、さまざまな問題も生じさせていること(それがこのドラマにも現れていること)などを教えてもらった。韓国はITで世界の最先端を行くと同時に、人間関係では土着の古いものも残っているのであろう。その人間関係の土着さを(それに全く頓着しない)検事シモンの行動が際立出せている。

ドラマの監督、製作者について

知り合いから、韓国ドラマ「秘密の森」をたまたま見て、韓流ドラマにハマったというメールをもらった。見ていないドラマなので、さっそく最初の3回を視聴した。

そのドラマは、一種の事件もの刑事(裁判)ものなので、私の普段見るドラマと違い、戸惑いがあったが、一つの気付きがあり、私の鑑賞眼の捨てたものではないと思った。ところがネットで確かめてみたら、それは間違いとわかり、私の鑑賞眼のなさを再認識した。

それは、「秘密の森」の西部地検次長検事役のユ・ジェミョンが、(昨年からの)韓国ドラマブームを牽引した「梨泰院クラス」で準主役のデヒを演じた人で、役どころの感じもよく似ていて、その下の検事の役どころも、「梨泰院クラス」のデヒの少し抜けた長男役とそっくりで、この「秘密の森」の脚本や監督(制作者)と、「梨泰院クラス」の脚本や監督が同じ人ではないと思ったことである。

調べたところ、全く違う人で、私の予想はきれいに外れた。ただ、このようなストーリーや見方は、韓国のドラマや映画で共有され、それが韓流ドラマの人気を牽引しているのかもしれないとは思った。

韓国ドラマを見る時、イケメンや美人の俳優が多いので、その俳優に魅かれて別のドラマも見てしまい、その俳優に魅かれ、そのドラマの監督(制作者)に関心がいかないように思う。日本のドラマや映画を見る時は、この監督の作品だからという理由で見るのが普通だと思う。アニメ映画でいえば宮崎駿の作品、新海誠の作品、映画でいえば、ビスコンティの映画、ペキンパの映画、黒沢明の映画、山田太一のドラマというように。

韓国ドラマの場合、「愛の不時着」と「よく奢ってくれる綺麗なお姉さん」のヒロインを演じているソン・イェジンばかりに目が行ってしまうが、ドラマの制作者(監督)は作品により違うことに関心を払わない(少なくても私は?)。この2つは、同じソン・イェジンが演じていてもかなり雰囲気の違うドラマになっている。一方、「よく奢ってくれる綺麗なお姉さん」と「ある晴れた夜に」は、監督が同一なので、同じような雰囲気のシーンが多く味わうことができる。(ヒロインの相手役は チョン・へインで同一)。これからは、韓国ドラマや映画を見る時、少しは俳優ではなく、製作者(監督)に注目して見てみようと思った。(今回の気付きは外れたが)