曖昧さに耐える

このテーマは、以前にも書いたように思うが、2つの文章を掲載しておく。

A

政治を「善悪・良否」のデジタルな二項対立に還元して理解し、解決策は「敵を叩き潰すこと」だと息巻くのが単純主義である。しかし、実際の政治は無数のファクターが関与する複雑系であり、わずかな入力変化で状況は劇的に変わる。そしてまことに困ったことに「先行きが見えない」時になると単純主義者の声が大きくなる。未来が予測不能になればなるほど、「実は話は簡単で・・・が諸悪の根源なのだ」と言い切る単純主義者に人々は魅了される。単純主義者は知的負荷を軽減してくれる。だから、内心では「それほど話は簡単ではないのでは・・・」と思っていても、「深く考えずに済む」という報酬に人々は簡単に屈服してしまう。/「世界はグッドガイとバッドガイが戦っている」という単純な二元論を信じて、知的負荷を軽減したいと願うのはトランプやヘグセスの勝手だが、世の中は実際にはそれほどには単純ではない。政治はわずかな入力変化で劇的な出力変化がもたらされる複雑系である。「北京で蝶がはばたくとカリフォルニアでハリケーンが生じる」という比喩がよく使われるけれども、政治というのはそのような未来予測がきわめて困難な系なのである。だから、できるだけ先入観を排して、楽観にも悲観にも傾かず、最悪の事態から最良の事態まで、思いつく限りのシナリオを用意して、現実をみつめる知的抑制が必要とされるのである。(内田樹 ブログ 2025年9月16日。http://blog.tatsuru.com/2025/09/16_1156.htm

B

○私達の生きている世界は混沌とした暗闇である。各個人は自分のサーチライト(見方、言葉)で、暗闇を照らし、照らし出された部分だけを見ている。人によりサーチライトの照らす方向や精度が違い、見える世界が違っている(高根正昭『創造の方法学』講談社現代新書 1972)。世界は白黒(左右)に分かれているわけではない。陸続き・海続きで、白黒がはっきりしないグレーの部分が多い。このような世界で生活する私達は、暗闇で個人個人の見え方に違いのあることを知り、白黒のはっきりしない世界に生きていることを自覚しなければならない。○普通のサーチライトで照らすと荒唐無稽に見えるトランプ大統領の言動も、「トリックスター」(河合隼雄『影の現象学』思索社1976)や「ポリティカル・コレクトネス(政治的正しさ)へのアンチテーゼ」という見方でみると、「伝統的な秩序や常識を破壊する存在で、それが最終的に新たな秩序や可能性を生み出す」という解釈が可能になる。常識や秩序破壊の先に新しい世界を築く責任感と力量がトランプ大統領にあるとは思えないが、見方を変えると異なる意味が立ち上がってくる。○混沌とした世界の中では、「あいまいさに耐える心性」も必要である。日常的には右か左かの二者択一を強いられる場面が多いが、その判断基準に明確な正解があるわけではない。無理やりの二者択一は、ストレスを溜め、正確な判断を鈍らせる。対立する意見や状況のあいだにとどまり、自らの判断や前提を再帰的に問い直しながら考え続けることが、真理や新しい価値の発見に繋がる。○今の教育が目指しているアクティブ・ラーニング(「主体的・対話的で深い学び」)は、これに通じるものである。画一的な答えを求めず、多様な見方を探求するものである。人類が長年積み重ねてきた学問的営為の上に、新たな価値や真理の発掘を目指している。未熟な児童生徒に対しては、真理はるか遠いところにあり、教科書や教師を媒介にして伝達されるものと考えがちであるが、流動的で再帰的な現代社会の中では、適合しない部分も多い。変動する社会では、教師と児童生徒が協働で新たな真理や価値を探究していく必要がある。○大学における固有の学びに関しては、主体的・対話的で深い学びが一層求められる。正解のない課題について、多くの文献やデータを参照しながら、対話を重ね、自分なりの答えを探究する。レポートや卒論、プレゼンにオリジナリティが求められる。それが社会における新たな創造や技術革新に繋がっていく。(Q) (内外教育2025年8月19日)

戦争、平和について、子どもたちにどう教えるか

今年は戦後80年ということで、戦争と平和について、過去の日本(人)の戦争体験も回顧しながら、語られることが多い(NHKの朝ドラ「アンパン」もその1つ)。80年という節目が終わったらそれで終わりということでなく、今後も引き続き、子どもたちに戦争と平和について語り教えていく必要があると思う。私自身は戦争を体験していないので、その体験を語ることはできないが、戦後の貧しい時代に生き、戦後民主主義の教育を受けその理想や理念は内面化しているつもりである。戦争の悲惨さ、原爆や核兵器の恐ろしさ、日本がアジア諸国に対して行った加害など、次世代に伝えなければいけないことはたくさんある。。

私自身、このような大きな問題、争点のある問題を論じる能力、知識を持ち合わせていないので、人の意見を紹介するくらいしかできない(村上春樹のこの分野の考えについては、2020年7月20日のブログで一部紹介した)。今回、(例により)、生成AI(チャットGPT)に、この問題を質問してみた。その回答は、子どもたちに示すべき文献や映像などが挙げ、子どもたちに戦争の悲惨さをリアルに示し、討論し考えさせる内容で、なかなか生成AIも捨てたものではないと感じた。

子どもへの保護者からの心理的虐待について

 子どものいじめ問題で、最も悲惨なのは子どもの「いじめ自殺」であろう。自殺した子ども遺書の分析などから、仲間内の凄惨のいじめの実態、親の思いや嘆きなどが伝わってくる。親は、教師や教育員会の対応の遅れや自己保身に怒りを感じることも多い。

 9月14日の朝日新聞朝刊の記事「親に『気持ちわかる?』 自殺考える子、ネットに残された声を聴くと」を読むと、少し意外な結果が報告されていた。

<(自殺した子どもの)最も多かったのは「保護者からの心理的虐待(疑いも含む)」で26.0%。虐待以外の「保護者との関係」も9.7%あった。学校関連では「学友との不和(いじめ以外)」が16.3%、「いじめ」が12.7%だった。 同様の項目は文科省の統計にもあるが、いずれもオンライン掲示板の分析結果より数字が低い傾向だ。23年度は「家庭不和」が16.4%、「父母等の叱責(しっせき)」が10.6%。「友人関係(いじめを除く)」が7.8%、「いじめの問題」が1.8%だった。 調査を担当した医師の半谷まゆみさんは、教員や学校が回答する文科省統計に比べ、オンライン掲示板には周囲が気づきにくい問題も数多く表れると指摘する。 今回の分析で注目するのは「心理的虐待」の多さだ。兄弟姉妹と比較される、毒親に悩まされている、といった投稿が目立ったという。 半谷さんはこれらは一般的に虐待と受け止められにくく、親も自分が悪いとは思っていないものの、子どもは死ぬほどつらいと感じているケースも少なくないと指摘する。>(朝日新聞より一部転載)

小説家は誰の視点から小説を書くのか。生成AIに聞く

加藤幸次先生(上智大学名誉教授)より研究会で「メタ認知」の話を聞く機会が最近あった。メタ認知とは<1970年代に、J. H. FlavellやA.L. Brown によって提唱された認知心理学の用語です。 メタ(Meta)とは「超越した」、 「高次の」という意味があり、認知(Cognition)とはそれが何であるのかを判断したり、解釈する行為です。><教師は教室での子どもの(メタ認知を制限して)学習を完全にコントロールしているのです。①行うべき学習課題、②そのための時間、③そこで使うべき教材、④追及する方法について、小出しして、指示していきます。(全体を見渡すことができず)間違いなく、子どもたちは極めて高い閉塞感を感じているに違いないのです。私たちが目指した授業はこの閉塞感から子どもたちを開放することでした>(加藤教授のレジメからの転載)。

それと、北澤毅氏(立教大学名誉教授)の構築主義に関する著作『「教育問題」はつくられる』(時事通信社,2025)の中に、『「神の視点」からの創作としての「真実」』(37~39頁)という言葉も出て来て(「刑事コロンボ」を例に説明している)、高次の(メタの)視点からものごとを見ることの重要性を教えられた。

そのことで思ったのは、小説家が小説を書く視点はどこにあるのかということである。例によって生成AIに質問してみた。(その回答が正しいということではないが、さらに考える材料にしたい)

追記 チャトGPTに依頼すると関連文献を挙げてくれるが、その文献記述が正確でないことある。今回の記述では 蓮實重彦『物語批判序説』(新曜社)→講談社文芸文庫、丸谷才一『忠臣蔵とは何か』(新潮社)→講談社(H氏からの指摘に感謝する)。

とても感心した本の書き方

本の書き方はいろいろあると思うが、今回、北澤毅・立教大学名誉教授よりお送りいただいた最新刊『「教育問題」は作られる―構築主義的な読み方・解き方』(時事通信社,2025)には、とても感心した。

北澤氏のこれまでの研究の集大成の1つで、内容が素晴らしいという面が第1の理由であるが、同時に、自分の今までの研究の集大成を論文集として出版するのではなく、一般向けに読み易い言葉で書かれたことである。構成も1つの小説のように組み立ててストーリーを考えて、読者がミステリー小説を読むようなる仕組みになっている。同時に注や参考文献も、コンパクトに精選され、読者が構築主義について学術的に学ぶのにも便利になっている。

内容を一部紹介したい。本書は、社会学の「構築主義的な読み方・解き方」を、少年非行、いじめ、発達障害の問題のされ方を、構築主義の視点から論じている。少年非行に関する予言の自己成就やラベリングが、意図しない結果を生む過程やメカニズムがわかりやすく書かれている。発達障害に関しても斬新な鋭い視点が提起されている。児童の定型から外れていると早期に診断され、発達障害のラべリングされた児童が、一斉教育を重んじる日本の学校制度のもとで、個性を抑圧され、障害者にされていくメカニズムが鮮やかに描かれている。それを回避する学校や教育実践も紹介されている。