外食&回転寿司について

外食をするかどうか、また外食にどの程度のお金を払うかは、個人や家族の経済的理由と考え方によって違ってくるように思う。
私の育った家族では貧しさから、外食というのはほとんどしなかった。唯一、大みそかにおそば(それもタヌキそば)の出前を頼むという習慣があり、それがとても楽しみだった覚えがある。
今はどこの家庭も外食をするのが普通になり、外食が贅沢という感覚は薄れているのではないか。アジア諸国では、外食の屋台もたくさんあり、日本より外食する回数は多く、安い。そして、今は日本でも家で料理を作り食べる方が、外食より手間やお金がかかり、贅沢になっているように思う(外食は味が濃く塩分が多く健康によくない場合が多い)。お金持ちが家庭料理を食べ、貧乏人が外食をするという逆転現象が起きている(外食でもお金をかければ、高級な食材で健康にもよい美味しいものが食べられるのかもしれないが)
都心では土地代が高く、外食のチェエーン店は少ないが、郊外では土地代が安い為それらが多い。寿司のチエーン店で言えば、回転寿司も多い。「回転寿司は、寿司ではない」という通の人もいるが、回転寿司の味も進化していて、意外と(?)美味しい。
「回転寿司」事情に関して、I氏より興味深い考察を送ってもらった(大資本が経営している、また地域差があるという、一部転載)

<回転寿司は通常の飲食業と異なり投資ビジネスと呼ばれ、大資本が大きな投資をして成功することが多く、小規模店舗は生き残りが困難とされている。その為、チェーン店や資本力のある店舗が勝ち残り、市場は資本力のある企業に淘汰されてきている。
日本国内では、業界首位の「スシロー」(あきんどスシロー)、2位の「無添くら寿司」(くらコーポレーション)、「かっぱ寿司」(カッパ・クリエイト)「はま寿司」(ゼンショーグループ)の100円均一店大手4チェーンが、全国にそれぞれ300店舗以上を展開している。 他の回転寿司チェーンは、一皿数百円の価格設定を中心に展開するチェーンや、これと100円均一店とを平行して展開するチェーンなど、多数の企業がしのぎを削っている。これらの店舗展開は主に本社所在地や出身地の周辺地域に偏在しており、「がってん寿司」は半数近くが埼玉県、「銚子丸」や「海鮮三崎港」は全店が関東地方に所在しているほか、「元気寿司」は関東地方、「アトム」は中部地方、「平禄寿司」は宮城県にそれぞれ過半数の店舗が集中しているなど、地域によって店舗数の上位チェーンは大きく異なる。はま寿司は3分の1の店舗が関東地方に偏っている。回転寿司発祥の「元禄寿司」は大阪府と兵庫県に合わせて10店舗を直営している。(※本段落の店舗数などは全て2016年5月1日現在)*
*(店名 本社 国内店舗数)
はま寿司 東京都 436/スシロー 大阪府 427/無添くら寿司 大阪府 372/かっぱ寿司 神奈川県 338/がってん寿司、函太郎、ダイマル水産 埼玉県 112/銚子丸 千葉県 90/元気寿司、魚べい、すしおんど 栃木県 73/にぎりの徳兵衛、海鮮アトム 愛知県 64/海鮮三崎港 東京都 62平禄寿司 宮城県 60
最近の多くの回転寿司がそうですが、寿司屋だか、居酒屋だか、ファミレスだか、よく分からない品揃えになっていますね。>

住む家や部屋の広さについて(その2)

水沼さんより、下記のコメントと新聞記事の紹介をいただいた。新聞記事も一部転載。

1月7日の「 住む家や部屋の広さについて」を拝見しました。
今朝の朝日デジタルに《家の大きさ、幸せの尺度じゃない 米国でも「狭小住宅」》
が掲載されています。
現在、市部でも農村でも大きな家に老夫婦だけが住んでいるケースが多く見られま
す。田舎に住んでいる知り合いの家は、総二階建てで十部屋もありますが、使ってい
るのはほんの僅かです。
いずれ日本にもアメリアのこの新しい「住まい論」が入ってくることでしょう。
https://digital.asahi.com/articles/ASKD05GG6KD0UHBI00H.html?iref=pc_rellink
(水沼文平)

新聞記事
<多くの米国人にとって、「成功」の象徴は今も家の大きさにある。米国で新築された戸建ての平均的な広さは、2016年で245平方メートル。1976年の158平方メートルと比べても一段と広くなった。 でも、そんな典型的な「アメリカンドリーム」に疑問を抱く人もいる。
 「両親は大きな家を建てたが、人生を楽しむには忙しすぎた」と語る。家も車も大きいのが両親にとっての成功だった。だが、仕事に追われていた。「幼少期に親とゆっくり過ごした記憶がない。家は大きくても、中はカオスだった」
 パークスさんも、以前は185平方メートル以上の家で暮らしていた。だが、半分は使っていなかった。2015年12月に小さな家に移る際、家具などあふれていたモノを一つずつ「これは私に喜びをもたらしているか?」と問い、処分した。>(朝日デジタル、1月8日より一部転載)

住む家や部屋の広さについて

家族が皆新潟にスキーに行ってしまい、私は犬と家で留守番しながら、普段は狭く感じる家が、ひとり(と犬)では広過ぎると感じている(冬の寒さもひとしお感じた)。
人が住むのに家の広さはどのくらいが適切なのであろうか。
もちろん、都会と地方では違うであろう、家族構成にもよるし、また時代によって変化していることであろう。
戦後2DKの団地が出来、40平米くらいの部屋が、新しい核家族の標準の広さだったように思う。その後は3DKや3LDが標準で、広さも60平米くらいになっていた。今の分譲マンションの広さを広告でみると80〜90平米くらいが標準になっているので、人は段々広い部屋に住むようになっていると思う。
核家族ではなく、拡大家族(2世帯)で住むのなら、広い家が必要であろうし、単身者であれば、狭くていいであろう。
それと家や部屋にどのくらいの家具を置くかの考え方によっても部屋の広さは変わってくるであろう。
部屋の広さにより、タンスなどの上にモノが置かれるかどうかが変わってくるという生活学会の報告(部屋が狭いと、タンスなどの上にどんどんモノが置かれ、部屋がますます狭く感じる。広い部屋だと上に何も置かれずスッキリする)を読んだことがある(中鉢正美編著『生活学の方法』ドメス出版、1986)。
昔私の家族は、住んでいた団地の3LDKの部屋が狭く感じ、同じ団地内で4LDKの1部屋多いところに引っ越し、金額で1千万円近くの出費があった。よく考えると使わない大きなソファーセットがあり、それを捨てれば引っ越しは必要なかったと、後で思った(30万円のソファーセッㇳを置くために1千万円出費する不合理さにその時気が付かなかった。)このように、不要な家具を捨てれば、狭い部屋でも十分快適に過ごせる。
成長期の子どもはいろいろなことに興味を示すので、広い家が必要かもしれないが、年寄りや単身者は、狭い家や部屋の方が便利であるし、室内も温度も自在に調整でき、快適なのではないか。家族のライフサイクルや自分にあった家や部屋の広さを考える必要があると思う。

日本人論について

昔読んだ日本人論について思い出した。その一つが「うちとそと」論。もう一つが自我構造論。
日本人にとっては、①うちとそとの境界がとても大事である。②うちとそととの境界は流動的である、③そとの人でも中の人の紹介があればうちに容易に入れるというものである。
 西洋人は、個人主義で、個人と個人以外との境界がはっきりしていて、状況に応じた「うちとそと」の区別はしない、個人も大事だが、誰に対しても公平平等に扱い、贔屓はしない(普遍主義)。日本人はうちの人に対しては、特別の配慮をする。 
 夫婦の関係について、これを当てはめて考えると、日本人の場合、夫と妻でかなり意識が違うのではないかと思った。
 夫(男)の方がうちとそと意識が強く、妻(女)の方はそれが弱い。妻の方が個人主義という傾向があり、それが原因で、夫婦間でかなり心の行き違いがあるのではないか。
 日本人の夫は自分の妻を最もうちの人と思い大事にするが、同時に自分と同じなので気を遣わず、そとの他者に気を遣う。それに対して、うちとそととの意識の薄い妻からすると、夫の自分への気遣いの少なさを、(夫の「うち」意識の強さとは取らず)、自分への気遣いや愛情のなさと解釈する。「よその人(他者)に気を遣い、自分のことを気遣ってくれない(守ってくれない)愛情のない夫」というように。(夫は妻を自分に一番近い人と思っているのに)
もう一つは、自我構造の違い。
個人主義で、がっちりした自我の構造(殻)をもっていている西洋人(固い殻のついた生卵にたとえらる)。それに対して、個人主義が確立していなくて、状況に応じて自我がへこんだりでっぱったりする(ふにゃふにゃな)自我構造(殻をむいた半熟卵にたとえられる)の日本人。(『日本人=〈殻なし卵〉の自我像』 (講談社現代新書) – 1977/8 森常治 )
ただこれは日本の男性に多く、女性は少し違う。日本の女性は、本人は自立しているわけではないが、西洋の個人主義に憧れ、自我の確立した西洋人に魅かれる。(江藤淳が『成熟と喪失』の中で、小島信夫の『抱擁家族』の夫婦について述べていることは、これにあたる)
 日本そして日本人もどんどん西洋化しており、日本人論のあてはまる部分が少なく、日本人論は廃れてしまっているが、少しは当てはまるところは残っているような気がする。

雑魚は雑魚取りに

吉本隆明の文章に、雑魚について書いたものがあったように思う(今手元に本はなく、確認できないが)。
 その趣旨は、大きな目の網を持っている漁師が雑魚を狙っても雑魚が網の目の間から抜け出し獲れない。雑魚を獲できるのは、雑魚用の小さい目の網を持っている人に限るというものである。
 漁師たるもの大きな魚を自分の荒い目の網で獲るべきで、雑魚など狙うべきではないというものだ。(ただ、大きな魚を獲る漁師と雑魚を獲る人に、優劣はない)
 つまり、自分の専門外のことにむやみと口を出したり、頭を突っ込むことはしない方がいいという忠告である。
 専門という隠れ蓑を使いそこに胡坐をかき外からの監視を拒むというのは、もちろんよくなく、部外者や素人が外部審査に入ることも時に必要だが、専門家はその分野に専念して長年やってきたものに、素人が軽い気持ちで参入しても、やはりかなわないのではないかと思う。これは政治や芸術の分野でもいえるのではないか。