敬愛パネル 「多文化共生社会と日本―教育の視点から」テーマ案    

1 外国籍の子どもの数の推移は、国別も含め、今後どのように変化していくのか。日本政府は、どのような政策をとろうとしているのか。県や市町村はどのような対応をすべきか。また地域社会の人々のなすべきことは何か。(→水口)

2 各国の多文化共生の歴史をみると、いくつかのパターンがある。日本がモデルにすべき国はどこか。(→松尾)

3 多文化共生社会の教育で求められる視点は、平等(国籍に関係なく平等に扱う)という視点と同時に、何が必要か。(→松尾、清水)

4 学校には見えにくい文化や差別があると言われるが、それはどのようにしたら顕在化できるか。また克服できるのか(→松尾、清水)。

5 外国籍の子どもは、日常言語と学習言語は違い、前者は容易に学べても後者の学びが難しいと言われるが、それはなぜか。どのような方法で、学習言語は学べるのか。(→ 佐々木、元吉)

6 外国籍の子どもの母国の文化や母語の保持は必要か。それはどのような方法で可能なのか。ダブルリミテッド(母語も日本語も中途半端で、思考言語が育っていない。学力が身につかない)をどう克服するか。(→清水、佐々木、元吉)

7 外国籍の子どもへの指導には、「日本語指導」「教科指導」「適応指導」の3つがあると言われるが、それぞれ何が大きな課題であるのか。(→清水、元吉)
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8 外国籍の子どもの学力の保証やアイデンティティ形成は、なぜ大切か。これは、子ども達の将来設計と関係があるか。(→清水、佐々木)

9 ナショナリズムが高まる中で、多文化教育をどのように考えればいいのか。
   (→ 水口、松尾)
10 外国籍の子どもへの教育が、日本の学校のあり方や学校文化への問い直しや日本の教育が豊かになるといわれるが、それはなぜか(→松尾、佐々木)。

「多文化教育」メモ」               

1 多文化教育や異文化間教育的視点は、単一文化的視点(メルティングポット)や比較文化的視点(旅行アプローチ)とは違い、マイノリティ(弱者)の立場に立ち考えることであること。またマジョリティーも異文化(マイノリティー)とまじわることにより自分達も豊かになるという意識をもつ視点である。

2「外国につながる児童の存在は、本校児童の学習活動のための資源の1つとなっている。より効果的な活用を図ることにより、学校教育目標の具現化につながるものと考えている。
 また、変化が激しい社会情勢の中、児童個々の違いを認め合える環境での学習活動が児童個々の成長を効果的に高めると感じている。」(佐々木惇、高浜小学校校長のことば)

3 多文化教育で、大事なことは、多様な見方を理解し、許容することである。その際に、バンクスの「転換アプローチ」は有効な方法である。他国や他者の立場から,同じ事象を見てみる。たとえば、第2次世界大戦や広島・長崎への原爆投下を、日本の視点からだけでなくアメリカの視点からもみてみる。「原爆教育」は、日米で行われている。

4 「ニュカマーの家族は、自分たちの日本への移動に、それぞれの「家族の物語」を有していた。そしてそれに対応した形で、個別的な「教育戦略」を採用して、日本の社会に適応しようとしている」(出稼ぎニュカマー、難民ニュカマー、上昇志向ニュカマー)(志水・清水編『ニュカマーと教育』明石書店,2001.p.364)

5 経済がグローバル化する中で、国を超えた物的人的交流が起こるのは必然であり、他者(当たり前を共有しない人)との関係を築き、「不快さに耐える」ことが必要。多文化教育を、理想だけでなく、現実的に考えることも必要。

追記1
敬愛大学のシンポジウム「多文化共生社会と日本」は明日(27日)、千葉の駅上のペリエのホールで開催される。
登壇する清水睦美氏の最近の論文を読むと、ニュカマー研究は、第2世代の問題に移っていることがわかる。下記で、清水氏の論文が読める。
ベトナム系ニューカマーのトランスナショナルな実践 – 日本女子大学学術 …
https://jwu.repo.nii.ac.jp/index.php?action…view…

追記2
敬愛大学のシンポジウム「多文化共生社会と日本」は、4人のシンポジストの内容のある講演があり、参加者も70名近くで満席で、成功裡に終わった。
ただ、討論者としての私のまとめがあまりうまくいかず、心残り。
パネルディスカッションは瞬時に的確な発言を求められ、議論に集中して的確に発言できればなかなか快感なのであるが、私の歳なのかの(?)そのような集中力がはたらかず、しどろもどろの発言に終わり後悔が残った。

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桜の季節

今年は桜の開花が例年より早いという。
毎年いろいろなところの桜を楽しみたいと思うのだが、今年は急に開花が「早まった」と言われた感じで、戸惑い、計画が立たない。
それに「どこかに桜を見に行こう」と家族に声をかけても、それぞれに都合があったり、好みの場所が違ったりで、何も決まらない。
今日(25日)は、家の前の小学校の桜を、犬や子ども(孫)と見て終わる。

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the cellphone zombies

卒業生のI氏より今年の英語の入試問題の紹介があった。
内容は、今のアメリカの若い人が景色のいいところに行っても携帯ばかり見て、景色を楽しまないし、人との直接のコミュニケーションもしないという、前の世代からの嘆きのようなものである。
前世代が後世代の行動を嘆くのはどこの国も同じだなという感想と、昔我々の世代も景色のいい宿に行き景色は楽しまず麻雀三昧にふけっていたことがよくあったということを思い出し、またまアメリカ人が通りがかりの見知らぬ人に挨拶するのは、他者への親愛の情からではなく警戒心があるからという藤原新也の解釈を思い出した。
入試の英語の問題は、英語の文章のよさから選べれるのであろうか、それとも内容からであろうか。

Depressed by politics? Stop staring at phones by Stephen L. Carter
NEW HAVEN, CONNECTICUT – My wife and I decided to take advantage of the spring-like weather this past week and head for the beach. We were not surprised to find that others hあろad the same idea. Foot traffic was so thick on the boardwalk that we could move only at a sluggish pace. We didn’t care. We were there to look at the dark, beautiful winter water, gently lapping up close, frothy further out. Visually, we drank our fill.
But what struck us as remarkable was how many of our fellow promenaders had no interest in the view. These were the cellphone zombies. There they were, on a crowded beach on the warmest day of the year, faces buried in their phones. Had the Long Island Sound vanished in a silent puff of mystical energy, I doubt they would have noticed. How the cellphone zombies avoided colliding with each other is a question best left to Stephen King.
Whatever works on the boardwalk, it fails on the roads. Lately we read that drivers using their phones are causing so many collisions that insurance premiums can’t keep up. Half of teenaged drivers surveyed admit to texting while behind the wheel, and a two-second glance at the screen exponentially increases the likelihood of an accident. Holding a phone in the hand makes things worse, but, as Tom Vanderbilt notes in his 2009 book “Traffic,” statistics for hands-free phones are not much better.
OK, all of this is reasonably well-known. (Maybe not the hands-free phone bit, which was news to me, but the rest.) Cellphones can be dangerous, but the zombies at the beach weren’t behind the wheel. True, even distracted pedestrians seem to be having more accidents. And there is growing evidence that young smartphone users exhibit the same behavior as addicts.
But my libertarian conscience does not want to tell anybody else how to live. If people want to come to the beach on a warm winter day and ignore the view, they should have the same freedom as anybody else to enjoy themselves in their own way. True, the zombies turned out to be the ones slowing foot traffic, and in that sense were uncivil. Given, however, that the zombies constituted a large majority of those strolling along the boardwalk, perhaps our norms of civility need rewriting.
Color me old: I can remember when strangers greeted each other on the street. There is a warmth in such behavior, a welcoming, a mutual assurance that each of us belongs. In the days of Jim Crow, many of the norms that supported the segregationist state were informal. Among them was the notion that white men would greet other white men whom they happened to encounter on the sidewalk but would ignore black men, who would be expected to stand aside. (The norms for women were more complex.) Nowadays on campus, students literally bump into their professors, and, noses buried in their cell phones, bounce off and keep moving without a word.
Of course nobody has an obligation to greet anyone else on the street. But social psychologists who study the effects of technology warn us that the lack of acknowledgment creates an “absent presence.” When we are ignored by those around us, stress levels rise. The fight-or-flight reflex might even kick in. Presumably these effects are minimal or absent in the zombies themselves: they do not notice those around them, and therefore could hardly respond to being ignored. But for those whose faces happen not to be buried in their phones, the stress effects of being surrounded by zombies are in the long run probably deleterious to health.
The obvious response is that we no longer live in a civil era. Almost two decades ago I published a book called “Civility: Manners, Morals, and the Etiquette of Democracy.” There I defined civility not principally as good manners (although I do believe that manners matter) but as the sum of the sacrifices we make for the sake of living together. Fans of the volume (thank you, by the way) have been asking lately whether I might perhaps bring out a revised edition, to take account of our depressing national politics.
Perhaps at some point I will. But I do not see our politics as the cause of our growing incivility. Our politics is the fruit of our growing incivility. If we expect better from officeholders and candidates and activists, we have to demand better from ourselves. A good place to start might be saying hello on the street. If that’s too big a change, how about if we all look up from our screens a bit more often and enjoy the view.

歴史的な見方について

世の中に、歴史好きな人が多くいると思う。大変羨ましい。
恥ずかしいながら、私は「歴史音痴」である。歴史の面白さや見方が全く分からない。
「司馬遼太郎の本を読むと歴史の面白さがわかるよ」と教えてくれる人がいて、いつか挑戦しようと思うが、まだ果たしていない。

その原因を考えてみると、高校の社会科の授業に原因があったのではないかと思う。
私の通った都立日比谷高校では、国語と社会科の授業はほとんど生徒のグループ発表だった。生徒の小グループで割り当てられた箇所を自分たちで調べ発表するものであった。先生から歴史の見方など教えられるということはなかった。少なくても私は授業から歴史の見方をまったく学ばなかった。生徒の調べ学習から歴史の見方は学べないのではないかと思う
ただ、日比谷の卒業生が皆「歴史音痴」かというとそのようなことはない。多くの生徒は社会階層が高く、家でしっかり歴史観を親から学んでいたと思う(同級生に政治家の息子の町村氏や東郷氏や片山氏もいたし、親が音楽評論家の大木氏いた)。(今のアクティブ・ラーニングへの、私の不安はここにある)。
大学に入ってからの、社会科教育法の授業で、担当の教員から「歴史的な見方は高校までに学んでくるもので、大学に入ってから学んでも遅すぎる」と言われたのは、大変ショックであった。
ただ、大学受験の「世界史」は苦手だったわけではない。どちらかというと「世界史」は、私の一番得意な科目であった。山川出版の「世界史」の教科書に書かれていることを全部覚えれば、入試で60%の得点が取れると言われた。その通りにしたので、世界史の得点にだけ自信があった。
大学に入り、自分は歴史が得意なはずと思い、山川出版の教科書の編者で有名な吉岡力教授の「西洋史」の授業を選択したが、全然歴史が面白いとは思わなかった。3年次に本郷で歴史家で著名な堀米庸三教授の西洋史の授業を、西洋史専攻の学生と一緒に受講してみたが、とりとめのない授業(少なくても知識のない私にはそう感じられた)で、歴史の面白さはわからなかった。受験の歴史と学問の歴史は違っていたのかもしれない。歴史的センスを学ぶ臨界点があることを思い知らされた。

歴史の面白さや重要性はどこにあるのだろうか。私的(=社会学的)になるが、思いつくことをあげてみたい。
1 社会や人のあり様を、過去と現在で比較することによって、現在の特質を客観的に知ることができる。
2 歴史を学ぶことによって、現在は失われているが、過去にあったよきものを再認識することができる。
3「歴史は繰り返す」と言われるが、過去の歴史を知っていれば、過去の過ちを繰り返すことなく、よき現在や未来を設計できる。
4 ものごとの発生の起源にものごとの本質が含まれている。ものごとの発生の起源を歴史的に解明できれば、今の時代に見失われたものがわかる。
5 現代の社会は複雑で次に何が起こるかわからないが、昔はものごとが単純で史実も残っているので、出来事の原因結果を実証的に解明できる。それは現代の社会のしくみを知るうえで役立つ。
6 歴史の流れには連続性や規則性があり、それは直線だったり、放物線だったり、あるいは振り子や螺旋階段のようなものである。したがって、過去の歴史を知ることは、未来を予測することになり、大変有益である。
以上は、素人考えに過ぎない。歴史学者の説明をこれから読んでみたい。

子ども史の研究に詳しい深谷昌志先生は、次のように書いている
「温故知新という言葉がある。古き時代は過去の遺物ではない。過去の中に現在をとらえるのに役立つ新鮮な視点が潜んでいる場合が多い」(「子ども史からの素描」『子ども問題事典』ハーベスト社,2013、p.225)

学習指導要領は、学力重視と人間性重視の2つを振り子のように行ったり来たりしていると言われる。したがって、学習指導要領の歴史を知ると、今度はどちらの方向に振れるのかが予想できる。(『教育の基礎と展開』学文社,第6章、新田司執筆)

松尾知明氏によれば、多文化教育の骨幹をなす多様性をめぐる歴史的展開は、次のようである。
① 第2次世界大戦から1960年代までの多様性許容の時期(移民、難民の受け入れ、多人種主義)、
② 1970〜1980年代の多文化主義浸透の時期、
③ 1990年代以降の人種暴動やテロにともなう多様性排除の傾向、シチズンシップ重視の傾向と動いている
(松尾知明『多文化教育の国際比較』明石書店、2017、pp.191-195)

 歴史を知ることは、歴史の流れに身を任せることではない。松尾氏はアラン・ケイの次のことばを紹介している(前掲p.213)  「未来を予測するもっとも有効な方法は、未来をつくることである」

教育において事実をふまえることの重要性

教育において事実をふまえることの重要性に関して、オックスフォード大学の苅谷剛彦氏は、今日の朝日新聞の記事で述べている。(朝日新聞3月20日朝刊より転載)

■現場に密着し、検証を行え   苅谷剛彦
 1998年、「ゆとり教育」が全面開花する学習指導要領が改訂された。改革の前提として文部省や審議会は「子どもたちが学び過ぎている」と考えていたが、実態を調べていなかった。
 私たちの調査結果は、その前提を突き崩すものだった。高校生の学習時間を調べると、97年は79年より明らかに短くなり、学び過ぎどころか、学ばなくなっていた。親の学歴が学習時間に与える影響も大きくなっていた。
 ゆとり教育を進めると、不平等がさらに拡大すると考え、発言を始めた。そこに「分数ができない大学生」が注目され、学力低下批判に火が付いた。
 景気が低迷し、非正規職が増える中、学校教育は格差のブレーキにもアクセルにもなりえる。臨時教育審議会以降の「ゆとり教育」は、明らかにアクセルを踏んだ。子どもの個性や意欲を重視し、主体性に任せる教育を目指した結果、小学生から学習の成果や意欲に階層差が生まれ、年齢が上がるに連れて拡大していることも、調査で判明した。
 文部科学省の政策転換によって学力低下を問題にする声はトーンダウンした。だが教育現場の実情は当時より厳しくなっている。そもそも、教員数が足りない。2008年の指導要領改訂で教える内容を増やしたものの、資源は追加投入されず、教員1人当たりの仕事が増えている。世代交代が重なり、経験の浅い教員も多い。
 20年度に新しい指導要領に移れば、この傾向はさらに強くなる。新指導要領は「主体的・対話的で深い学び」を目指し、子どもが話し合い、発表する「アクティブ・ラーニング」を重視する。効果のある実践にするためには、学級規模を一層小さくする必要がある。
 新指導要領は英語教育の早期化、プログラミング教育の必修化など、高度な内容も入れている。現場の教員が疲弊すれば、低学力の子に目がいかなくなる。しわ寄せを受けるのは、家庭環境に恵まれない子どもたちだ。
 過去の教育の欠陥を前提に理想を掲げて現場に下ろすが、人、モノ、カネはかけない。日本の教育改革はその繰り返しだった。
 いま必要なのは現場に密着し、その実績から、何ができ、何ができなかったかを検証することだ。実際に結果を残してきた実践とは何だったのか。日本の教育の強みと弱みはどこにあるのか。抽象的な理想を掲げ、わかったつもりで突き進むより、現場の現実や実績と向き合うことからしか、有効な改革の糸口は見つからない。