絲山秋子「薄情」を読む      水沼文平

「薄情」は「沖で待つ」で芥川賞を受賞した絲山秋子の小説です。
よく人は「あいつは薄情者もんだ」と言ったりしますが、他者に対して情が薄いのは誰でものこと、みんな自分のことで精いっぱい、他人のことはかまっていられないのです。
この小説は異常な降雪と主人公が格闘する暗示的なシーンから始まります。彼は30才位で神主の予備軍、何もやる気のない無気力人間です。それでも稼ぐ必要があるので嬬恋でキャベツの収穫の季節労働をしています。そして出会い系サイトを見ては女を漁ったりもしています。
主人公の家がある地域(群馬県のどこかの街)に東京の芸術家が市の援助で材木工場を改造して住んでいます。周りの人は珍しがってその工房に集まってきます。主人公もその一人です。常連の東京で育った女性が自分の街の変貌を盛んに嘆いたりしています。
作者は、都会と田舎、男と女、自然と人などの対比と変化を巧みに織り交ぜていきます。
名古屋から主人公の高校後輩(女性)が帰ってきます。彼女の父親はその芸術家の取り巻きのひとりです。そのうち彼女はその芸術家とできてしまい噂が広がります。そうこうしているうちに、その工房が芸術家の不始末で火事を起こします。芸術家と周りの人たちの人間関係はいとも簡単に壊れてしまいます。薄情なものですね。主人公も確かな手ごたえがあった女に打算的な理由で簡単に捨てられてしまいます。
主人公は雨の日に、東京から福島県の白河に帰るヒッチハイクの生真面目な高校生に出会います。そして白河まで送っていくことになります。少年に車に乗せた理由を聞かれ「出羽三山に行く途中だから」と嘘をつきます。
この無償の行為が主人公の心に大きな変化をもたらします。少年を送り届けた彼は東北道を北上し、神が宿る出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)に向かいます。

絲山秋子は群馬県の高崎在住です。小説の至るところに群馬の山や湖が登場します。
自己中心的で利己的な人間集団の中でうまく泳ぎこともできずに擦れ切れてしまった主人公は最後には自然に魅かれ、自然と対面・融和することで新たな生きる道を築こうとしているのかもしれません。
読んでいて「自然と神」「生々流転」「独生独死」などの言葉が浮かんでくる本でした。

カズオ イシグ「わたしたちが孤児だったころ 」を読む

遅いペースだが、カズオ イシグの本を翻訳で読んでいる。今回は「わたしたちが孤児だったころ 」を読んだ。
戦前の上海が舞台で、時代に翻弄される人々の生活と心理が描かれ、推理小説のような面白さも感じる小説。
これは本筋とは関係ないが、イシグロの主人公が、接する人の表情や心理を敏感に感じ、それに反応する描写が多く、興味深い。
イシグロの作品をさらに読みたくなった。

この本の感想は、ネットに載っているものを転載しておこう。(https://bookmeter.com/books/525854)
<両親の失踪で孤児となる。前半は子供の世界観と大人の世界観の相容れなさ(主人公は両親と彼らを取り巻く人々の間の葛藤、アキラは日本に馴染めないなど)が主体として描かれる。読みながら、自分の少年時代(自分は孤児ではないけれど)に世の中をどのように見ていたかが懐かしく思い出される。後半は探偵ものらしく、両親の手がかりを追って上海での生活が描かれる。そこで少年時代に知り得なかった「大人の事情」に翻弄された両親の真実を知ることとなる。その真実を突き止めるために探偵となった主人公には、ショッキングな真実が待っていた。>
<1920年代の上海。イギリス人で10歳のクリストファーは両親の失踪事件により突然孤児となった。親戚のいるイギリスへ帰郷させられた孤独な彼の心を支えてきたのは、失踪事件を解決し両親を救うこと。その為にイギリスで探偵として名を上げ上海に乗り込む。翻訳もの特有の違和感や独特の世界観で読み難いところもあるが、混沌とした上海で記憶を頼りに調査を進めるところは先が気になり面白かった。最後に待っていたのは辛い真実だったが、両親の事件に囚われていた心が解放され、今度は自分の人生を生き始められそうでホッとして本を閉じた。>
<幼い頃の記憶はたいてい甘美なものかもしれないが、異国で、しかも両親の失踪などという出来事に見舞われたらどのようなメモリーが刻まれるのだろうか。サラ、アキラ、フィリップおじさん、そしてジェニファーの存在を軸に読み進んだが、最後にクリストファーが母親と再会し、交わした会話に何とも言えない情愛を感じた。クリストファーに刻まれたメモリーもジェニファーの申し出によって新しい方向に向かって行きそうだ。最後の最後で救いを感じた一冊だった>
<子供時代の記憶(大人が思っている以上に周囲の状況を理解し、乗り越える能力がある)を反芻しながら、両親の失踪事件の追跡調査が展開される。その結果見えてくるのは、戦争によって運命を狂わされたものたちの悲しい足取りであった。皆、普通に幸せに生きることを願い、穏やかに暮らそうと努めてきただけなのに。努力も虚しく空回りの地獄。でも最悪の状況下でも最善を願い前を向く。子供時代の行動や心理状態の描写など、相変わらずイシグロ氏の観察眼は鋭く、表現力(筆力?)も秀逸。大国の帝国主義政策に対する批判的作品。>
<クリクトファーとサラとジェニファーと。 孤児たちは自分の孤独と向き合いつつ、世界を相手に戦っている。魂の触れ合いがあることが救いだけれど、自らの幸せを追求することからも遠ざかって。ただ、真実を知ることだけが魂の救いであると信じて。さすがカズオイシグロ。重層的な筋運びに東洋西洋の狭間を生き抜いた筆者の姿も垣間見えるようで、圧巻の一冊でした。>
<19世紀の世界は今よりずっと野蛮で権力者の権力も大きかった。国家が成長するために他国を侵略するのが普通だった。そんな残酷な世界の中では大人もまるで寄る辺ない子供のような存在となってしまう。人がどこか壊れていってしまう描写から、どんな時も強く生きることができる人間なんていないというニュアンスのメッセージが感じられた>

移動しなくていい社会を作っては

「地方に住む若者たち」のところに書いたが、最近の若者は生まれ育ったところが好きで遠くに行こうとしない傾向がある。これでは異文化体験ができず、視野が狭くなってしまうことが懸念される。
 
 ただ、車で遠方に行くと、高速道路といえども時間はかかるし、渋滞や事故もあり、運転には一瞬の油断も許されず、どうして人はこんなに移動するのだろうと思う。
 もっと自分の住んでいるところで自足して満足すれば、人はこんなに移動しなくていいのにと思う。
 その為には、生活に必要なものは近くで供給され、風光明媚な場所も近くにあり、日々の生活が快適で充実したものであればいい。
住んでいる人も多様でわざわざ遠くに行かずとも、多様な文化に触れ、異文化体験ができるようになればいい。
移動しない人間を基調にした社会作りができないものかと、夢のようなことを考えている。

追記
住みやすい都市や街の上位に上がるのは、このように自足した多機能のところかもしれない。札幌、仙台、横浜、神戸、福岡などがこれにあたるように思う。
それでも、仙台に関しては、水沼さんから次のようなコメントが寄せられている。
<仙台は政宗一色ですが、それぞれの時代に優れた人物を輩出しています。「なぜ仙台人は郷土の歴史と先人に興味を持たないのか」「なぜ仙台人は新しいものに飛びつくのか」「なぜ仙台人は権力に弱いのか」、こんな研究テーマを持ち始めました。>

昔懐かしい場所ー野尻湖

過去に長年過ごした場所や思い出のある場所を訪れると、懐かしく、いささか心を動かされる。
特に通った学校(小中高)や大学、長年働いた職場などは、近くに行っただけで、当時のいろいろな思い出が蘇り、懐かしくなる。心休まる場合もあるが、逆に心穏やかでない場合もある。
私の場合、自分の通った大学、そして最初の職場はあまりいい思い出はなく、駒場も本郷もあまり近づきたくない場所である。

ただ学部生・大学院生、助手の時、夏のよく行った大学の寮(野尻湖寮)は、楽しく懐かしい思い出がたくさんある。
大学のクラブの夏合宿(男だけ50名近くの荒ぽい合宿だった。合宿の最終日には後輩が先輩を服を着たまま湖に投げ込む恒例の儀式もあった)、学部3年次の教育調査の調査票作りの為の夏合宿はいつも野尻寮で行われ、(私は助手時代、松原治郎先生の助手として毎年ご一緒した)、当時学部生で今は学会で活躍している後輩との思い出も多い(例えば小林、近藤、渡部⁂、耳塚、苅谷らの各氏)。友人や家族とも過ごした。

野尻寮は木造2階建てで、素朴な野尻湖の湖畔にあり、桟橋の間で泳げて、ボートや卓球台があり、妙高高原の山々が見えて、いろいろな人と過ごした楽しい思い出だけが残っている。
そこを半世紀ぶりくらいに訪れる機会があり、昔を懐かしんだ。大学の寮の建物はもう取り壊されてなくなっていたが、桟橋は残っていて、場所の雰囲気は昔のままであった。

⁂*集団生活嫌いの渡部真さんが、学部3年生の時、勇気を出して合宿に参加し、1泊だけだったが、皆と一緒に過ごせたのは画期的なことだったのであろう。その渡部真さんは今年亡くなり、もう会えないと思うと寂しい。湖畔で冥福をお祈りした。横浜国大と上智の学生との合同合宿も懐かしく思い出す(こちらは山中湖や軽井沢で行った)

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猛暑に思う

例年にない暑さが続き、うちでも例年はほとんどクーラーなしで夏を過ごすのだが、今年は1箇所だけクーラーが付けぱなしになっている。それだけ今年は暑いのであろう。

でも、これまでも夏はこのくらい暑かったのではないかという気もする。
昔8月上旬の一番暑い時に信州で3〜4日過ごし、涼しくて快適で、一番暑い時の避暑はこんなに体にいいものかと思ったことがある。

自分が小学生の頃(1950年代)、夏休みといえば、午前中の涼しい時に少しだけ夏休みの宿題をして、その後は親戚の子や友だちとセミやトンボやチョウチョウを採りに行ったり、草野球をして、暑い夏を過ごした記憶がある。その頃は家にクーラーや(電気)冷蔵庫もなく、夏が暑いのは当たり前で、その暑さを楽しんだ記憶がある。

その頃(1956年)の7月の東京の平均気温を調べると25.9度、最高気温28.1度とある。今年の7月の東京の平均気温28.7度、最高気温33.1度である。今年は60年前と平均気温で3度ほど高く、最高気温で5度ほど高い。確かに、地球の温暖化が進んでいるのかもしれない。今年は特に猛暑である。
(ちなみに東京オリンピックのあった1960年の最高気温は、7月29.8度、8月30.4度である。)
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=44&block_no=47662&year=&month=&day=&view=a2

ただ、7月と8月では年により気温の高い月が違っているので、今年は8月になり気温が下がることを願う。

追記1ー7月26日(木)は30度を超えているが、前日より2〜3度下がったのであろう。涼しく感じる。暑さ―寒さの感じは、相対的なところもある。
追記2-「日本の夏の高温化の主な原因は、取り沙汰されることが多い地球温暖化ではなく、ヒートアイランド現象にある。」という説もある。」
webronza.asahi.com/science/articles/2018071900009.html?iref=pc_ss_date