歌手と社会階層

ロックバンド・オアシスの紹介に、「ファッションにおいては、ウインドブレーカーやジャージといった労働者階級の普段着を着て、ライブやインタビューに臨んでいた。」という記述があり(https://ja.wikipedia.org/wiki/)、興味深いと思った。

私たちはバンドや歌手のファッションに関してあまり関心を払っていないように思う(少なくても私はそう)。音楽性や歌詞の内容ではなく、ファッションに注目して、音楽を聴く(見る)のも一つの見方だと思った。

その際、高級な服を着ているのかどうか、ファッションセンスがいいかどうかということではなく、社会階層(階級)やジェンダーといった社会学的な観点からの考察も興味部深い(多分、もうなされていると思うが)。

クラシック音楽の独奏者(女性)が、高級なパーティドレスで登場するのは、上流階級の表象かもしれない。日本のフォーク歌手やロック歌手さらにはアイドルグループのファッション(服装)は、どの階層のものなのであろうか。試しに、吉田拓郎の映像から、そのファッション(服装)を見て、階層帰属を考えてみよう。

https://www.youtube.com/watch?v=n8OUm1rtS8A

このように、ものごとの本来の目的や機能とは別の観点から考察するというのは社会学の強みであろう。上野千鶴子がコマーシャルをジェンダーの視点から分析した『セクシーギャルの大研究』や、ジェイクスピヤの戯曲をジェイクスピヤの女性観という観点から分析するなど、出来ることはいろいろある。

<追記> 教員の服装はどうであろう。教員らしい地味な服装という点では共通だが、小中高大の教員では微妙に違っている。大学教師の場合、日本では男はスーツ・ネクタイ着用が多い。アメリカの大学教師はそのような背広・ネクタイ姿少なくもっとカジュアルである(私が昔UWで授業を受講した世界的に有名な教育学者のアップル教授やポプケビッツ教授はいつもジーンズ姿であった)。この日米の差はどこから来るのであろうか。大学教師の階層帰属は?

<追記2>ポプケビッツ教授とアップル教授が来日し、上智大学で講演していただいた時の写真があったので掲載しておく。日本ではアップル教授はネクタイ姿であった。


齢をとるということ- -新しいものに目がいかない

研究者が書く原稿は、自分が書きたいと思ったテーマや内容で書くものと、外から依頼されて書くものある。優れた(あるいは幸運な)研究者はこの2つが一致しているのかもしれないが、多くはこの2つは乖離している。したがって前者は大学の紀要などに書き、後者は依頼先に書くという使い分けをする場合が多い。

依頼されたテーマの原稿を書くための資料探しや勉強で、自分の視野や知識が深まったという場合も少なくない。しかし、それも齢をとってからは無理かもしれない。高齢になると、昔から馴染みなもの、昔から好きものばかりに目が行き、新しいものに目がいかない。それは、趣味の領域でもいえて、新しい分野に挑戦できない。読む本や聴く音楽についても言えるであろう。

私の場合今短いものだが依頼された原稿があって、締め切りが迫っているので、早く指定された本を読んで感想を書かなくてはならないのだが、なかなかそのことに集中できない。つい、関係のないことに目が行き、時間を潰してしまう。パソコンに向かい、何か文章を書こうと思うのだが、過去のメールを読んだり、誰かのブログを読んだり、you tube を見たりして、肝心の原稿書きが進まない。

昔の教え子がOasisの曲がいいと言っていたので、Oasisの曲をyou tube ではじめて聴いた。もっとハードなロックかと思ったら、ジョン・レノンの曲に似ていて歌詞にも訴えるものもあり、悪くはないと感じたが、何せ昔聴いていないので、すぐには馴染めない。先週WoWowで予告を見た吉田拓郎の方が、昔よく聴いたのでスーと入ってくる。画面の右に、「レ・ミゼラブル」の曲(On My Own)が出ていたので、思わずそちらをクリックして聴いてしまった(「レ・ミゼラブル」は私が唯一海外で観たミュージカルで、音楽も印象に残っている。-「ミス・サイゴン」と「マイフェア・レディ」もアメリカで観たことを思い出したが、音楽は記憶に残っていない)。とてもいい曲と歌手だなと思って、その歌手(上白石萌音)の他の曲を聴いて見たが、期待とは違ったそれだけ、自分の感受性が老化しているのであろう。*

https://www.youtube.com/watch?v=qT28CmrN_lw

池澤夏樹が書いているように「老いては若きに席を譲ろう」ということが必要かもしれない、と思った。

*追記 その後上白石萌音に関しては、新海監督がその声の透明感を評価し、映画「君の名は」のヒロインの声に抜擢した人ということを今頃になって知った。齢をとると、情報の受け取りの速度が、数テンポも遅れる。

大ヒット映画「君の名は。」のヒロイン・上白石萌音、歌手デビュー!新海誠監督からの“激励”に涙

社会的地位や金銭に価値はない?

達成動機、加熱(ウォーミング アップ)、立身出世(主義)、アメリカンドリームなど、偉くなろうという気持ちは、現代も若い人々の中に存在するのであろうか。

受験競争が過熱化していた時代は、そのような意識は強く、子どもたちは受験勉強に明け暮れていた時代はあった。受験競争に勝ち抜き、有名大学に入り、一流会社に就職する。年功序列の会社組織の中で、社会的な地位や高い収入が保証される。その競争に負けたものは負け組として過酷な生活を強いられた。

現在も社会的格差や非正規雇用者の悲惨さ、子どもの貧困などが問題視されながらも、高学歴や立身出世を目指す若者は少なくなっているのではないか。 そもそも高い社会的地位、お金持ち、有名ということに価値がなくなっているような気がする。そのようなものより、身近な毎日の生活の中での楽しさ、快適さ、満足度の方が重視されるようになっているような気がする。便利なネット環境、夢中になれる趣味、素敵な出会いといったささやかな喜びに価値が置かれている。

それだけ、日本の社会が豊かになり、野心の冷却(クール・ダウン)装置がはたらき、ギラギラしたものがなくなったということである。(旧世代からみると、今の日本の若者には野心がなく、もの足りないと感じていることであろう)

<上記の文章を敬愛大学の1年生に読んでもらい、「あなたは高い社会的地位や金銭的成功を求めますか」という質問をした。その結果は(回答者39名)「求める」15名(38.4%)、「金銭的成功を求め、社会的地位は求めない」5名(12.8%)、「求めない」19名(48.7%)であった。ただ、「求める」も、人並みのささやかなものであった。

スポーツと人間性

スポーツと人間性には関係があるのであろうか。スポーツによって人間性が鍛えられる、高められるということがあるのであろうか。

「健全な精神は健全な身体に宿る」というの本当だろうか。学校や大学でスポーツばかりやっていても、大丈夫なのであろうか。学校での授業や家での勉強をおろそかにしても、スポーツで鍛えられたものがそれを補ってくれるのであろうか。やはり、学校・大学は勉強や読書で、人間性を高めるところと、教師は考えてしまう。ただ、スポーツの一流選手がその人間性も高く評価され尊敬され、引退後も社会的評価の高い地位(議員やキャスター)に就くのは、スポーツに人間形成機能があるからかもしれないとも思う。

またスポーツの種目によっても、そこで養われる人間性には差があるのであろう。特に個人スポーツと集団スポーツでは形成されるものが違うであろう。個人スポーツでは自分に打ち勝つことが求められ、集団スポーツは自分に打ち勝つだけでなくチームワークが求められる。人を見て、この人がやるスポーツは何、と言い当てることができるような気もする。野球人パーソナリティ(P)、サッカー人P.ゴルフ人P.テニス人P.卓球人P.柔道人P.剣道人P.水泳人P.スキー人P.など。

大人がよくやるゴルフとテニスと卓球の違いを考えることがよくある。 ゴルフは、あれだけ芝生のきれいな広いところでプレイしたらさぞかし健康にいいだろうなと思う一方、この広大な(人工的な)ゴルフ場をつくために、どれだけの自然が破壊されたのかと考えてしまう。その点、卓球はなんと狭いところでやる慎ましいスポーツなのかと気がする。卓球は室内の競技なので、自然のさわやかさを感じることができないのが欠点。テニスは程よい広さで、四季を感じながらプレイできる点はよい。でもかなり足腰を使うので年寄りには少しきつい。 卓球もテニスも人のいないところに球を打つことが多いが、それだと人の裏をかくということで、人が悪くなるところがある。


アマチュアの合唱団の演奏を聴く

昨日(25日)は、JR錦糸町駅近くにある「すみだトリフォ二ーホール」で開かれていた「すみだ音楽祭2019」を聴きに行った。4つのアマチュア合唱団のステージ(それぞれ1時間ずつ)を聴いたが、どれも期待以上の出来で、聴きに来た甲斐があったと思った。

どの合唱団も週一回程度の練習で、プロの指揮者がいて、年齢は50歳代か60歳代が多いという感じである(70歳以上の人もちらほら見られた)。若い頃に、学校や大学で合唱をやっていて、その醍醐味が忘れられず、齢とってからも合唱を続けているという感じの人が多かった。

「女声合唱団シューベルト・コーア」は、51人の多人数で、オーケストラや歌劇の曲を、指揮者・編曲者の吉元貴弘氏が合唱用に編曲した曲を歌い、意欲的な曲編成で、アマチュヤにしては難しいことに取り組んでいるなと感じた。

「ブルーメンコール」は、女声が49名、男声は11名と、混声にしては少し偏った編成だが、男声も遜色なく、宗教曲をしっかり歌っていた。パイプオルガンの荘厳な音も加わり、さながら教会で合唱を聴くような感じであった。

「隅田川合唱団」(混声)は、ここも男声は6人と少なかったが(女声31名)、合唱用のとてもいい編曲の曲を丁寧に歌い、思わず聞き惚れる合唱であった。(アンコールの拍手が少なく、アンコールがなかったのが残念)

「すみだ男声合唱団」は、男声26人の少人数の編成で、年齢も高く、期待をしなかったが、一番感銘を受けた。男声合唱は混声に比べ音域が狭い為、ダイナミズムに欠けるのかと思ったら、とてもきれいで、完成度の高い演奏であった。とりわけ「男声合唱のための組曲<蔵王><両国>」には心打たれた(ただ、ポピュラーな曲の演奏はつまらなかった)。最後の「男声合唱とソプラノ独唱のための落葉松」は、ソプラノ歌手の浦野美香の歌が素晴らしく、それと男声合唱のジョイントは、アマチュアの域を超えていると思った。

音楽は、自分たちで演奏して楽しむ程度の水準と人に聴かせていい水準とがはっきりある区別できるななと感じた。今回、アマチュアながら人に聴かせる域の演奏をいくつか聴きことができラッキーであった。